【善盡美盡】ハングル「四面石塔」と青木繁「海の幸」

ハングル「四面石塔」と青木繁「海の幸」

NPO法人安房文化遺産フォーラム 共同代表 池田恵美子

 

私たちが住む千葉県館山市には、アジア太平洋戦争の遺跡や「噫従軍慰安婦」の碑をはじめ、海を通じて人びとが交流・共生した痕跡などが多く存在しています。高校の世界史教員であった愛沢伸雄さんが、地域教材を活かした平和学習の実践にはじまり、文化財保存運動とまちづくり活動に発展し、NPO法人安房文化遺産フォーラムが生まれました。多様な歴史文化遺産を「館山まるごと博物館」ととらえて、教育支援やまちづくり・国際交流を進めています。

河正雄さんとの出会いは2005年3月のこと、NPO会員で秋田出身の富樫研二さんから高校時代の友人として紹介されました。河さんは私たちの活動にとても共感してくださり、それから20年近く親交を深めてまいりました。

館山の大巌院というお寺にある「四面石塔」は、東西南北の各面に和風漢字・朝鮮ハングル・中国篆字・印度梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれています。ハングルは、世宗王が創成した東国正韻式といい、現在の韓国では使われていない古い文字です。建立された1624年は、豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉倭乱)で拉致した朝鮮人を徳川幕府が送還する朝鮮通信使兼刷還事業の第3回目がおこなわれた年であり、また三十三回忌にあたります。戦没者供養と平和祈願をこめたものと推察され、日韓交流の象徴的な史跡として私たちは大事にしてきました。

石塔建立者の雄誉霊巌上人は、後に江戸霊巌寺を創建し、京都知恩院の中興の祖となる高僧です。奇しくも河家の故郷は韓国霊岩郡であり、同じ名であることに深い縁を感じられたようです。

また、明治の画家・青木繁は館山の小谷家住宅に滞在した1904年夏、日本初の重要文化財となる名画『海の幸』を描きました。NPO会員の彫刻家・船田正廣さんが同寸大の塑像『刻画・海の幸』を3年がかりで完成させたのは、ちょうど百年目にあたる年でした。その後、全国の美術関係者の方々とともに「青木繁『海の幸』誕生の家と記念碑を保存する会」を発足する際、河さんにも発起人となっていただきました。

河さんが美術メセナを始めた当時、全和鳳の記念画集の美術評論をブリヂストン美術館の嘉門安雄館長にお願いしたという縁で、同館所蔵の『海の幸』を鑑賞し、とても感動したそうです。生命力あふれた躍動感と労働者の喜びは、在日一世として苦労した親の姿に重なったといいます。「小谷家住宅の保存修復が進んだときには、『刻画・海の幸』をブロンズにして館山と光州市立美術館に置きたいね」とおっしゃっていました。

2015年は第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会を開催し、河さんに基調講演をお願いしました。久しぶりに館山を訪れた河さんは、敬慕する船田さんが大病を患っていると知り、とても心を痛めました。小谷家住宅の保存基金も4000万円近く集まり、翌春には青木繁「海の幸」記念館の開館が決まっていました。

そこで河さんは、戦後70年・日韓国交正常化50周年にあたり、理事長を務めていらした財団法人秀林文化財団の記念事業として、ブロンズ『刻画・海の幸』を作品にし、河正雄コレクションとして次の5か所(千葉県館山市:青木繁「海の幸」記念館 ▷福岡県久留米市:青木繫旧居 ▷韓国ソウル:秀林文化財団金熙秀記念アートセンター ▷韓国光州市立美術館分館河正雄館 ▷韓国霊岩郡立河正雄美術館)に寄贈設置されました。

このご英断は、日韓文化交流の架け橋であるとともに、盟友の彫刻家・船田正廣さんを顕彰する意義深いメセナであったことは言うまでもありません。2022年に逝去された船田さんは、「多くの人の手で撫でられたブロンズは、百年後の未来にも美しく輝きます」と生前よく語っていました。皆さん、どうぞブロンズをかわいがって撫でてください。