吉岡憲の想い出(by嶋田正稔)
この夏の贈りもの
夭折の画家、吉岡憲の想い出
この夏、京橋のブリジストン美術館で開催された「没後100年 青木繁展—よみがえる神話と芸術」を鑑賞した。夭折の天才画家 青木繁 に相応しい充実した記念展であった。
明治37年(1904)7月、東京美術学校を卒業したばかりの青木繁は、友人の坂本繁二郎、森田恒友、恋人の福田たね と房州布良を訪れ8月末まで過ごし、そこで代表作《海の幸》が生れている。
また、記念展には滞在中に友人梅野満雄に送ったに絵入書簡が展示されており、布良海岸の様子や青木の高揚した気分を感じることができた。
房総半島南端房州布良は(館山市布良)私のふるさとである。
青木繁の名を初めてしったのは、半世紀前の昭和36年(1961)、布良海岸を見下ろす高台の地に「青木繁 海の幸 ゆかりの地」の記念碑が建立されたときである。その記念碑は、建立から半世紀後の今でも地元の人々により大切に保存されている。
もう一人、戦後の混乱冷めやらぬ昭和20年代に布良を訪れ40歳でその生涯を閉じた夭折の画家吉岡憲(1915〜1956)を知る人は少ない。
平成20年(2008)1月、両親の33回忌法事の準備のため父の遺品の整理をしたところ、押入れにすっぽりとはまるように作られた特製の木箱のなかに 和紙に包まれた紙包みがあった。紙包みの中身は、吉岡憲の2枚のデッサン、一枚は父のデッサン(58歳、昭和26年8月)、もう一枚は私の少年時代(12歳 昭和26年12月)のものであった。そのとき突然、吉岡憲についての50年前の小学生の記憶がかすかに蘇った。
両親の法事を終えたその年の夏「信濃デッサン館」で、吉岡憲の数枚のデッサンに再度出会った。そして、翌年(平成21年4月)学生時代のゼミの同期生で刊行した古稀記念文集に「ふるさとのことなど」と題し、「青木繁《海の幸》記念碑」のことや趣味の美術館めぐりのほかに、吉岡憲についても以下の通り触れることになった。
「戦後の昭和20年代、当時小学生であった私も四季折々に海を描いている画家をよく見かけた。父が絵を好きだったこともあり、物不足であった戦後の一時期、わが家に逗留する画家も多かった。その一人に吉岡憲がいた。
父が「将来が楽しみな画家だ」とよくいっていたのを憶えている。・・・・・
私は、この画家が大好きだった。…・今吉岡憲の作品で手元に残っているのは、父と坊主頭の少年を描いた2枚のデッサンだけである。坊主頭の少年は12歳の私であり、この絵をみると腕白坊主だった当時のことが懐かしく蘇ってくる。」(平成21年4月)
その他、吉岡について記憶していることといえば、お酒好きだったこと、あるとき白髪の画家(野口弥太郎)と怖そうなおじさん(中村哲 法政大学法学部長)が一泊したこと、吉岡が2人の姉たちと楽しそうに歓談していたこと、小学生の私に対してもとても親切だったことなど、のわずかなものであった。
吉岡憲が何時頃どのくらいの期間布良に滞在したのか、作品がどうして「信濃デッサン館」にあるのか等々 吉岡憲 についてしりたいという気持ちがさらに強くなり、調べていくと平成15年(2003)神田神保町の「いのは画廊」で遺作展が行われていることがわかり、そのとき出版された「追憶の彼方から〜吉岡憲の画業展〜」を手に入れることができた。そして 吉岡憲 という画家の生涯をしり、その作品の数々をようやく目にすることができた。
また同じ頃、洲之内徹の 吉岡憲 についての著作にも巡り会うことができた。
「絵のなかの散歩」(新潮文庫)のなかに「芸術新潮」1970年(昭和45年)9月号に掲載された「波の音」という短編が収録されている。
少し長くなるが引用してみたい。
「数年前(1965年)、吉岡憲の遺作展を私の画廊で開いたとき、私は吉岡の作品を探して、その布良の港へ行ったことがある。吉岡が生前、何度もそこの網元のS—家に滞在して仕事をしているからであった。吉岡には海女を描いた作品が何点かあるが、そのモチーフを彼はここで見つけたのだ。山腹から足許の漁村を越えて、遮るもののない一直線の水平線に向かっている風景もよくある。しかしS-家にも、どの家にも、吉岡の作品は残っていなかった。考えてみれば道理で、吉岡はここでたくさんの絵をかきはしたが、作品は全部東京に持ち帰って売っただろうから…。
ひとつだけ、滞在中にS—家の姉妹に描いてやった肖像画があったのだが、それもその娘が嫁に行くときに持って行ったとS—老人は言い、嫁入り先の和田浦の米屋を私に教えてくれた。
私は鴨川に近い和田へ行って、教えられた米屋を訪ねて行き、奥さんに会って、奥さんの娘時代のその肖像画を貸してもらったが、絵を包んでくれながら、奥さんはある日台所で水仕事をしていて、終わって、手を拭いてラジオのスイッチを入れると、吉岡憲が鉄道自殺をしたという、ニュースのちょうどそこのところがいきなり声になって出てきたと、その時の話をした。偶然というものの、偶然と言ってしまうには不思議な符号を思わせる話であった。
奥さんはまた、吉岡が布良のS—家に来るようになった初めの頃は自分はまだ高校生で、自分もスケッチブックを持って吉岡について写生に行くことがあったが、吉岡はよくシャンソンを歌っていた、とそんな話もして、近頃館山の町へ出たとき、《聞かせてよ愛の言葉を》を探してみたが、館山では見つからなかったと言ってちょっとはにかんだような笑顔を見せた。
それで、展覧会が終わって絵を返すとき、私は新橋のレコード屋でそのレコードを買い、絵に添えて使に持たせてやったが、数年前のそんなことを、車を走らせながら、私は思い出すのであった。・・・・・・」
以上は、洲之内が吉岡の遺作展開催のため、作品を探しに房総を訪れたときのことを、5年後に偶然泊まった房総和田町の宿で、奥さんが数か月前に亡くなったことをしり、夜波の音を聞きながら当時を回想するというものである。
この回想に登場するS—老人は、当時71歳の父繁であり、お米屋の奥さんは当時37歳の姉久美子である。この姉の話から考えると、吉岡は数年間にわたり布良を訪れていたことになる。私の少年の頃の吉岡についての記憶がはっきりしているのもそのせいかもしれない。
この夏、信濃デッサン館を友人夫妻と3年ぶりに訪れた。
信濃デッサン館の入り口には収蔵されている画家の名前が掲載され、その中に吉岡憲の名前もあった。最近入手したという吉岡の代表作「笛吹き」が正面に展示されていた。そして吉岡憲の全てが詰まった平成8年に出版された資料「手練のフォルム 吉岡憲全資料集」(信濃デッサン館編)を手にすることができた。
資料集に「吉岡憲のこと」と表記された20ページの小冊子が挟まれており、
それには4人の追悼文が載っている。その一人、吉岡が日大の芸術学部美術科で4年ほど教えていたときの教え子 鞍掛徳磨(画家)の文章のなかに布良のことも書かれている。
「・・・・風景に関する作品群は、千葉の布良、長崎、秋田のもので、・・・・・
上落合のアトリエを引き払って千葉に移るということで出かけていった。・・・・」
やはり、青木繁と同じように吉岡憲と房総半島最南端の布良とは深くて強い繋がりがあったのだ。
最後に、吉岡憲遺作展を記念し出版された「追憶の彼方から〜吉岡憲の画業展〜」(2003年(平成15)6月発行)に掲載されている 窪島誠一郎氏(「信濃デッサン館」「無言館」館主・作家)の文章『吉岡憲の「絵の匂い」』の一部を引用させていただく。
「展覧会を開いてびっくりしたのは、来廊者のなかにいわゆるプロの画家の姿が目立ったことだ。それもプロ中のプロ、吉岡と同時代をすごし日本の近代美術に少なからず影響をあたえた重厚な画家たち、たとえば麻生三郎氏や森芳雄氏や大野五郎氏といった人たちが食い入るように吉岡の絵をみてゆかれた。百花繚乱というと大げさだけれど、大して名も知られていない私の画廊が、
吉岡憲のときばかりは銀座や京橋の一流どころと同じくらい有名画家の面々の来訪でにぎわったのである。・・・」
少年の頃、吉岡をしり、長い空白のあと 両親の33回忌の法事のときに
見つけた2枚のデッサンから始まった吉岡憲を探す旅もこれで一段落したようである。そして青木繁の半世紀後に布良を訪れていた吉岡憲が私にとってもう一人の夭折の天才画家として強く心に残ることになった。
また、多くの作品が信濃デッサン館に大切に保管されており、その人生の軌跡も「吉岡憲全資料集」(1996)に集約されていることに安らぎを憶えた。
何物にも代えがたいこの夏の贈りものであった。
嶋田正稔
平成23年9月22日
◆吉岡憲(1915—1956)年譜
「追憶の彼方から〜吉岡憲の画業展〜」より抜粋
大正4年3月25日東京に生る。本名佑晴。昭和2年、川端画学校に通い藤島武二の指導を受ける。昭和6年、東京美術学校に入学したが父と祖父の反対で入学を取り消す。母らの勧めで画業に戻る。10年、渡仏を目的とし出発するが、シベリア鉄道閉鎖のため断念。ハルビンに滞在し、ウラジミール専門学校で学ぶ。14年、帰国。帰国後は独立展に出品、18年、第13回独立展に「海女」ほか2点を出品、独立賞を受賞。インドネシア・ジャワ軍政監部宣伝班に配属される。現在のジャワ美術学校の創立に尽力。昭和21年、帰国。22年独立美術協会準会員となる。読売新聞社選定・昭和22年度美術ベスト3に選ばれる。
23年、第16回独立展に「母子像「食卓」を出品。会員となる。25年、日本大学芸術学部美術科の講師となる。26年、千葉房総の布良、御宿を訪れる。第19回独立展に「漁村」などを出品。以降中堅画家として活躍。31年1月5日、中野区高根町の踏切で国電に触れ死去。40年、銀座・現代画廊(洲之内徹)「吉岡憲回顧展」。平成8年、窪島誠一郎の監修により『手練のフォルム〜吉岡憲全資料集(信濃デッサン館)が出版される。15年、いのは画廊・キッド・アイラック・アート・ホールにて「追想の彼方から〜吉岡憲の画業展〜」が行われる。