倉田白羊(くらたはくよう)

● 倉田白羊/ 1881(明治14)-1938(昭和13)

生涯の盟友である山本鼎の提唱する2つの大きな美術運動に賛同、重要な役割を果たした。大正5年の朝鮮・満州旅行を契機に、風景画へ転向。大正6年より館山に居住、「布良」「那古の山」などの水彩画を描く。白羊のもとに集まった小学校教師らに、従来の美術教育ではなく、自らの感性で表現する自由画を奨励する。千葉師範で研究会がもたれ、県下に自由画が広まる。房州北条で自由画展を開催、鼎も来房し意見を交す。大正11年に鼎の要請で上田へ移住、日本農民美術研究所の副所長に就任、本格的な農民美術の教育を始める。上田移住後も時々房州を訪れ、美術教育に尽力。

白羊の妻・英子は房州写生旅行中に知り合った網元の娘だが、明治期に房州根本から明治期に米国モントレーに移住したアワビ漁師の先駆者である小谷源之助・仲治郎 兄弟の実妹である。

美術文芸雑誌『方寸』最終号で青木繁追悼特集を組み、倉田夫妻が編集にあたっている。

『水門』館山市立図書館蔵

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