布良(富崎)
富崎ってどんなところ?
■富崎の様子
富崎地区は、館山市の南の玄関口にあります。平地が少なく、海に面した地形で、相浜漁港と布良漁港を中心に家が集まっています。
布良の沖合いは、黒潮と親潮がぶつかる所で、全国的にみても魚の種類の多い海域で、昔から漁業を中心に栄えてきた海辺のまちです。
私の家は布良漁港の近くにあります。漁をしながら民宿や旅館を営んでいる家も数軒あり、漁港から出港する船を利用する釣り客も増えています。
布良漁港の南側にある阿由戸(あゆど)の浜は、昔、黒潮に乗ってやって来た忌部(いんべ)氏が上陸した所と伝えられ、富崎地区は神戸地区とともに、安房開拓にまつわる神話が伝えられている地域です。
富崎の地名も、布良崎神社の祭神で安房開拓の祖と伝えられる天富命(あめのとみのみこと)と、岬に位置する地域であることに由来しています。明治22年に富崎村ができたときにその名がつけられました。
富崎小学校には、「富崎カルタ」というのがあります。3学期の初め頃、体育館に全校児童が集まって行われるカルタ大会は、10年以上続く富崎小学校の伝統行事です。カルタは画用紙大の大きさで、「昔の伝統船祝い」「海の幸描く青木繁」「みんなで歌った房州安房節」など、富崎地区の歴史や自然が描かれています。
明治時代、布良はマグロの延縄(はえなわ)漁が盛んでした。漁師さんたちによって歌い継がれている「安房節」は、富崎の漁業の歴史を私たちに伝えてくれています。
・布良(めら)
布良の地名の語源は、海草(布)が繁茂する浦(布浦‐めうら)とも、和歌山県の目良(めら)あるいは伊豆の妻良(めら)の住人の移住にちなむものともいわれています。沖合には古くから好漁場として知られた布良瀬があり、豊かな漁村でした。縄文海進による海食洞穴が、長い年月の隆起のため標高23.5mにあります。幕末には沿岸警備のため3門の砲台が設置されました。神社は安房開拓神話にまつわる布良崎神社、駒ヶ崎神社、寺院は龍樹院と本郷・阿由戸(あゆど)の二つの観音堂があります。
・相浜(あいはま)
相浜は平砂浦の東に位置しており、かつては地引網が盛んな漁村でした。1703(元禄16)年の大地震では土地が5m隆起し、津波被害も大きく、蓮寿院には犠牲者の供養塔が建てられています。1923(大正12)年の関東大震災でも津波被害がありましたが、元禄津波の教訓から住民は高台に逃げ、犠牲者は1人だけでした。ヤマトタケルを祀る浪除(なみよけ)神社と宇豆彦命を祀る楫取(かじとり)神社が合祀された相浜神社では、毎年3月末に曳き船祭りがあります。江戸時代には修験の感満寺がありました。