版画家・秋山巌 生誕百年に想う=池田恵美子

版画家・秋山巌 生誕百年に想う ~館山の空を飛んだ元落下傘兵~

池田 恵美子

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山頭火とフクロウをモチーフにした作風で知られる版画家・秋山巌先生は、1921年生まれ、2014年に93歳で亡くなった。ご存命なら2021年の今年は生誕百年にあたる。

ある日、秋山先生の長女・町田珠実さんから一本の電話があった。私とは、25年来の友人である。

「父がね、海軍落下傘部隊に所属していて、館山で訓練をしていたらしいの。館山に落下傘部隊の碑があるから見て来いって言うのよ。恵美子ちゃん、知ってるかしら?」

NPO法人安房文化遺産フォーラムの事務局長として、戦跡の調査やガイド活動をしていた私は当然知っている。 ひとつは安房神社の慰霊碑、もうひとつは自衛隊の敷地内にパラシュートをかたどったモニュメントがある。

2009年1月、珠実さんは館山へ来訪し、父親に代わり2つの碑をお参りした。その報告を受け、秋山先生はとても喜んだらしい。

同年12月、TBSから私に、館山の戦跡に関する取材の依頼があった。戦争体験者も紹介してほしいとのこと。 一人は、15歳で海軍特別年少兵になったというNPO会員の庄司兼次郎さんを紹介した。もう一人いないかと聞かれ、秋山先生を思い出して打診したところ、ご快諾いただいた。松戸の自宅での取材に同行し、お話を伺った。

館山での体験を意気揚々と話すうちに、青春時代が蘇ったご様子で、すぐにでも館山へ行きたいと言いだした。 それなら、何かイベントをやりましょうと企画を考えた。

年が明けて2010年1月、御年88歳で、66年ぶりの館山訪問が実現した。大巌院の客殿をお借りして作品展とライブペインティング、南総文化ホールでトークショーをおこなった。そのとき語られたことを一部紹介したい。

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1941年9月、20歳で海軍落下傘部隊1500名に選抜され、館山海軍航空隊で訓練を受けた。上空300mからの降下訓練で、怖くてグズグズしていると尻を蹴飛ばされた。無事に着地すると10円もらえた。なかには落下傘が開かずに墜落したり、風に流されて館山湾に落ちて溺れたりと、訓練中に死んだ仲間もいる。

12月には台湾の嘉儀海軍航空隊で最終訓練をして、翌 1942年2月にティモール島クーパンへの奇襲攻撃をおこなった。1943年には館山海軍砲術学校で陸上戦闘の訓練を受けた。サイパン・ラバウルと転戦し、終戦を迎えた。捕虜になったが、得意の絵で春画を描いては煙草を手に入れ、わりと優遇されていた。

復員後は、太平洋美術学校に入り、坂本繁二郎先生に絵を習った。その後、棟方志功先生の作品に衝撃を受けて版画家を志し、門下生となった。棟方先生のところには、柳宗悦先生や河井寛次郎先生が出入りしていた。柳先生には、「井戸は2本掘れ」と言われた。専門一筋ではなく、文学や詩を読んだり、勉強して想像力を広げろという意味だった。『遠野物語』や俳句に興味を持ち、各地を旅して回った。

なかでも種田山頭火の句に惹かれ、永平寺本山のポスターに選ばれ、曹洞宗のカレンダーにも使われるようになった。息子のいたずら描きをヒントに、フクロウを作品の モチーフにした。墨絵のような版画が特に海外で好まれ、大英博物館やオーストラリア・イスラエル・スコットランドの国立美術館などに所蔵されているらしい。

遅咲きの芸術家だが、学ぶことと作品を作ることはずっと続けている。70歳を過ぎてから梵字の読み書きを独学でならい、毎日梵字で日記をつけている。

戦争の善し悪しはともかく、私は館山で戦争の訓練を受け、死の恐怖と生の喜びを徹底的に味わった。青春を過ごした館山で、私に出来ることがあればお手伝いしたい。

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ご生前、秋山先生には本当に可愛がっていただいた。私は「天の采配」という言葉をよく使うが、縁とは不思議なものだ。先生との出会いは、導かれたとしかいいようがない。

長女が私の友人ということから始まって、落下傘部隊の証言はNPO研究にとって重要であった。坂本繁二郎は、青木繁とともに布良の小谷家に滞在した旧友である。柳宗悦の兄・柳悦多は館山在住で、関東大震災のとき、講師をしていた安房中学(現安房高校)で亡くなっており、その長男(宗悦の甥)は私の安房高校時代の恩師である。パズルが嵌まるように、面白いほど次々と繋がっていった。

現在のコロナ禍において、青木繁「海の幸」記念館は休館中であるが、著名な画家の皆様からご協力を得て、チャリティの青木繁「海の幸」オマージュ色紙展を2月末までオンライン開催している。秋山先生にも天国からご参加いただいた。

インターネットがない方も、NPO事務所前のウィンドウに展示してあるので、六軒町通りをお通りの際にご覧いただければ幸いである。 合掌