足もとの地域から世界を見る〜海とともに生きてきた安房国再発見=『地歴史地理教育』

足もとの地域から世界を見る〜海とともに生きてきた安房国再発見

池田恵美子(千葉歴教協安房支部)『歴史地理教育』2012年6月号



● 館山まるごと博物館

千葉歴教協から誕生したNPO法人安房文化遺産フォーラムでは、地域の物語を掘りおこし、その点と点を線で結び、地域全体を面として捉える「館山まるごと博物館」構想を提唱し、歴史的環境の保存と活用を呼びかけてきました。

温暖な南房総は花と海ばかりでなく、北限のサンゴやウミホタルが生息し、環境学習の宝庫です。太平洋に突き出た地の利は、古くから海路の要衝でした。市民の保存運動により史跡化を実現した、中世の城跡や近代の戦跡はその象徴といえます。また地震や津波にもくり返し遭い、関東大震災では旧館山町が99%壊滅しています。海岸段丘や海食洞穴、内陸2キロ地点にある縄文サンゴ地層や200万年前の海底地滑り地層など、ジオパークとしての魅力にも恵まれています。

館山駅に近い路地裏には、サイカチという古木がせまい通りを占領しています。発音が「再勝」に通じる縁起の良い木とされ、屋敷の鬼門除けだったようです。元禄地震の津波から難をまぬがれた人の逸話も残っています。さらに、いざというときには葉が食用、実が洗剤、トゲが解毒剤として役に立つというのです。合理性や利便性だけで安易に伐り倒すのではなく、残してきた先人たちの想いに耳を傾けたいと思います。

旧千葉県立安房水産高校(現在は統合され館山総合高校)では、戦時下の金属供出にあった初代校長の銅像を教員が石膏型に残し、戦後同窓会が再建したといいます。1933年建立の銅像は、彫刻家・北村西望の作品でした。東京美術学校の教授だった北村は、次々と銅像が兵器に変えられることに怒りを覚え、美校を退官し銅像救出運動をしたそうです。再建された銅像もまた、長崎の平和祈念像と同じように、館山の平和祈念像といえるのではないでしょうか。

足もとには、戦乱や災害を乗り越えてきた先人の物語がたくさんあります。大会の現地見学では「東京湾要塞と本土決戦陣地をあるく」「房総半島先端から東アジア交流史をみる」の2コースを準備し、皆様のご来訪をお待ちしています。

 

● 館山と韓国に建つ日韓友情の証

これまでも歴教協大会で授業実践の報告をし、南房総を舞台にさまざまな日韓交流がおこなわれてきました。館山の大巌院にある「四面石塔」には、朝鮮ハングル・中国篆字・印度梵字・和風漢字で「南無阿弥陀仏」と刻まれています。のちに京都智恩院の中興の祖となる雄譽霊巌上人が建立した1624年は、第3回朝鮮刷還使がおこなわれていることから、朝鮮侵略に関わる戦没者供養と世界平和祈願がこめられたものと考えられます。また千倉海岸には、1780年に漂着した清国貿易船・元順号を救助した200年記念の「日中友好」碑があります。2009年には、東アジアの戦争と交流史をテーマに、日中韓青少年歴史体験キャンプも開かれました。

さらに海の歴史をひもとくと、近代水産業の発展が見えてきます。幕末から蘭学や航海術を学び、ウィーンやフィラデルフィアの万博を見聞した関澤明清は、欧米の水産技術に衝撃をうけ、水産振興は日本の重要施策と考えました。近代捕鯨銃や鮭鱒の人工ふ化、缶詰製造法を導入するとともに、水産教育の重要性を説き、自ら所長となって水産伝習所を開きました。のちに水産講習所、東京水産大学、東京海洋大学となる前身ですが、その実習場は1901年以来今なお館山にあります。東京湾口部でカギ状の館山湾は遠洋漁業の重要拠点となりました。

1907年、館山湾で訓練していた日本初の水産教育実習船・快鷹丸は、朝鮮海域で操業中に暴風雨にあい、学生と教員四名が殉難しました。生存者は地元漁師らに救助され、26年には韓国浦項の迎日湾岸に供養碑が建立されましたが、戦争をへて碑は倒され土中に埋もれてしまいました。しかし1971年、浦項市文化財保存委員長の朴一天氏と在日韓国人の韓永出氏らの尽力により再び掘りおこされたのです。

遭難から100年の節目にあたる2007年、当NPOと東京海洋大学関係者は訪韓しました。プラカードを持った反日家らしき人びとと警察官がいるような緊迫感のなか、碑を参詣したのです。このとき交流した地元漁師の語った言葉は今でも忘れられません。

「韓国最東端の岬で漁労に生きるには、国境問題など言っていられない。どこの国の船であろうと、助け合わなければ生きていかれない。だから海に生きる男同士の友情の証として、この碑を守っていくのだ」

ふたたび足もとに眼を転じると、館山では関澤の顕彰碑に寄りそうように、同時代の遭難供養碑が二つ並んで建っています。これまで気にとめることもなかった碑ですが、これもまた次代に語りつぎたい物語です。

 

太平洋を渡った房総アワビ漁師

20世紀初頭、小谷源之助・仲治郎兄弟ら房総のアワビ漁師は、カリフォルニアモントレー湾域に渡り、器械式潜水漁をはじめました。水産伝習所卒業の弟は帰国して潜水技術者を養成し、兄はアメリカでアワビ缶詰などを起業して日系コミュニティを作りました。そのゲストハウスには、尾崎行雄や竹久夢二や皇族らが滞在しています。ハリウッド俳優となった早川雪舟の兄や親戚らもアワビ移民でした。渋沢栄一の渡米には、縁戚にあたる館山病院長の穂坂与明が侍医として同行しています。今も残る100年前の万祝(漁師の晴着)には、背中に日米の国旗が交差し、裾にはUSAと染められています。国際親善に寄与したと思われますが、日米開戦後はポストン強制収容所へ送られました。

アメリカ軍が作成した日本本土侵攻計画・コロネット作戦の図面を見ると、関東一円をターゲットとした中心点は館山を指しています。このとき作成された『日本各県マニュアル(千葉県第一分冊抄)』の序文には「この基になったデータには、1945年7月1日現在、モントレー駐屯地で入手した情報を含む」と記されており、この情報源としてアワビ移民たちが協力させられたものと推察されます。

一方、彼らの故郷・南房総は本土決戦に備え、砲台や特攻基地が次々と造られていました。食糧増産のための花禁止令が出され、種や球根の保持も禁じられた地域にあって、敵国からの手紙や写真が見つかれば非国民として処罰されます。戦争によって引き裂かれた家族たちは、どんな想いで生きていたのでしょうか。

長く埋もれていたこの史実は、市民の地道な調査研究によって、「戦後60年」記念の日米交流として実を結びました。アメリカの歴史学者とモントレー市民40名が来日し、8日間にわたって戦跡や先祖の生家をめぐり、菩提寺の参詣を果たしたのです。

大会の「地域に学ぶつどい」でも、このテーマを取り上げます。足もとの地域から世界を眺め、生きた国際理解教育と地域づくりを語り合いましょう。