館山の偉人と温故知新の「まちなか観光」

館山の偉人と温故知新の「まちなか観光」

池田恵美子

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銀座商店街から市立図書館に向かう途中、「サイカチ」と呼ばれる老木がある。狭い路地を占領する邪魔な存在と見られがちだが、今まで伐られなかった理由はあまり知られていない。

サイカチは「皀角子」「皀英」と書かれるが、発音が「再勝」に通ずるため、昔から縁起のよい木として大切にされてきた。また幹や枝に鋭いトゲがあるので、門や柵の周囲に備え、転じて鬼門除けの木ともされてきたという。

もっとも重要なことは、いざというときに、葉が食用、実が洗剤、さらにはトゲが解毒剤になり、日々の生活のなかでとても役に立っていたことである。さらに、元禄大地震のときにはこの木によじ登った人が津波の難を逃れたという逸話も残っている。この木を伐らずに守ってきた先人たちの想いに耳を傾けてみよう。

 

今から84年前。1923(大正12)年9月1日11時58分、マグニチュード7.8の関東大震災が起きた。家屋被害率は、北条町97.0%、館山町99.1%、那古町98.7%と壊滅的であり、北条小学校では増築した新校舎が引渡し式の2時間後に倒壊したという。安房北条駅まで鉄道が開通して4年目、まちは新しい時代に向かって変わろうとしていた矢先のことであった。

安房郡震災復興会を組織し、地域を挙げて協力体制が敷かれた。道路・河川・海岸・港湾などの土木や建築物の復興とともに、あらゆる産業の復興が急がれた。震災は地形の変化ももたらした。宮城浜は隆起して干上がって、高ノ島まで歩いて渡れるほどになり、鏡ヶ浦の海岸線も延びて遠浅の海となった。現在の海岸線に並行して道路が敷かれているのは、繰り返し起きた地震のたびに隆起した砂丘列であり、たとえば旧オドヤの裏の崖や中央公園奥の石積みなどは海岸段丘の痕跡である。

高ノ島をはじめ海岸沿いでは地震後に鉱泉が湧出したところもあり、海水浴場としての魅力を増したという。「復興活動に努力せられつつある都人士を迎えて慰安を与ふる」という観光事業の推進が大きな役割を果たした。土木建築の復興がすすむと、翌年には海水浴客の誘致を行ない、観光振興を通じての震災復興が図られ、宿泊施設は震災前を上回っていったといわれる。転んでもタダでは起きない、先人のたくましさはすごい。

 

そんな震災復興のかげに、大きな功労者がいたことはあまり知られていない。1880(明治13)年に岡山県で生まれた光田鹿太郎である。福祉の父と呼ばれた石井十次が始めた岡山孤児院で事務を執った後に、鎌倉・東京を経て、1916(大正5)年に北条町新塩場に千葉県育児園(県内初の孤児院)を開設している。

関東大震災が起きたとき、育児園の子どもたちは庭に現れたヘビを物珍しげに見ていたため、園舎は全壊したものの、ヘビのおかげで園児は全員助かったという。クリスチャンの光田はこれを「神のご加護」と感謝し、壊滅的な打撃を受けた館山の人びとのために、連日身を粉にして奔走した。これらの様子は、『安房震災誌』に「氏が真に罹災者を思ふの熱情と犠牲的精神の然らしむるものにして其の功績顕著なりと謂うべし」として記されている。

特筆すべきことは、交通が遮断され旅程の困難ななか、万難を排し方途を尽くして知己の多い関西方面へ再三赴き、復興資材を大量に買い付け、あるいは救援依頼を訴求してまわったことである。これにより各地から多くの支援物資が届き、特に11月末の大遊説では布団・毛布を募集したおかげで、館山の罹災者は寒さと飢えから救われた。

震災後、育児園は館山小学校裏手に再建され、新塩場から移転したといわれるが、残念ながらその後の消息は不明のままである。今こそ、後世に語り継ぐべき偉人といえるのではないだろうか。

 

明治期以降の建物を「近代化遺産」と呼び、その文化財的価値が見直されている。いずれも震災後の建物であるが、赤門病院の鈴木家住宅や長須賀の紅屋商店が国の登録文化財となった。

築港前に建つ白亜の洋館は、館山市名誉市民である小高熹郎氏が、大正初期に建立された旧古川銀行鴨川支店(現在の千葉銀行に統廃合)を、昭和初期に現在地へ移築したものである。氏の没後10年、風雨にさらされ傷んでいたが、私たちNPOが借り受けて修繕し、現在は「小高熹郎記念館〜たてやま海辺の博物館」として開館している。

かつて汽船場通りと呼ばれた本通りに建つ大和屋金物店は、震災の倒壊を免れたという貴重な近代化遺産である。とくに北条地区には、壁面に柱を使っていない礼拝堂をもつ聖アンデレ教会をはじめ、震災の翌年に建てられた大正ロマンの薫る洋館が今なお多く残っている。

このような近代化遺産をめぐるウォーキングを「ヘリテージング」と呼び、最近では全国的に人気のある「まちなか観光」とされている。地域の活性化や観光立市の実現は、案外、「温故知新」にヒントがあるかもしれない。まず、館山に住む私たち自身が、足もとから地域を見つめ直してみたいものである。 (完)

=館山銀座振興組合ニュース2007.09=