漁村が誇る3つの〝あ〟のまちづくり 〜青木繁・安房節・アジの開き〜(全国生涯学習まちづくり)

漁村が誇る3つの〝あ〟のまちづくり 〜青木繁・安房節・アジの開き〜

池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長)

(2018.6.10全国生涯学習まちづくり研究会神奈川大会)
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◇エコミュージアム「館山まるごと博物館」

千葉県館山市では、地域全体の魅力的な自然遺産や文化遺産を「館山まるごと博物館」ととらえ、市民の学習・研究・展示や保全活動を通じて、エコミュージアムのまちづくりを進めている。

1990年頃から、高校教師による地域教材づくりの調査活動が始まり、その後、市民による戦争遺跡や中世城郭の保存運動に広がった。20余年にわたる市民運動が実り、館山海軍航空隊赤山地下壕跡は館山市指定史跡となり、里見氏稲村城跡と岡本城跡は国指定史跡となった。

ほかにも、国際交流の証である江戸期建立のハングル「四面石塔」や遭難救助の「日中友好」碑、隆起した地層や海岸段丘など震災の痕跡、終戦時の米占領軍上陸と直接軍政等々、多様な地域資源に磨きをかけ、スタディツアーガイドや交流事業を実践してきた。国内外からまちづくり視察も来訪し、地域再生の糸口として期待されている。

また、房総半島と三浦半島は、阿吽の御神石を有し、古代から深いつながりをもつ。東京湾の制海権をめぐり、中世においては里見氏と後北条氏による水軍の戦いや和平関係があった。幕末では多数の台場がつくられ、明治以降は帝都防衛の東京湾要塞地帯として共に重要な役割を担った。

今日、両半島は広域的なエコミュージアムという視点の認識が求められ、これまでにも「東京湾まるごと博物館」シンポジウムを開催している。

◇美術界の聖地・布良という漁村

「館山まるごと博物館」において、昨今最も注目されているのが、青木繁「海の幸」ゆかりの漁村のまちづくりである。その舞台は、かつてマグロはえ縄船発祥の地として栄えていた館山市富崎地区(布良と相浜の2集落の呼称)である。

1904(明治37)年夏、画家の青木繁は恋人や友人らとともに布良の漁家・小谷家に滞在し、名画「海の幸」を描いた。後に洋画では日本最初の重要文化財となり、多くの画家に影響をもたらしたことから、布良は美術界の聖地と呼ばれる。 房総開拓神の天富命(アメノトミノミコト)が上陸したとされる神話の里である。水平線には伊豆の島々が並び見え、布良崎神社の2つの鳥居の間に富士山が拝めるという絶景にも恵まれている。

沖合の布良瀬は豊かな漁場であったが、複雑な潮流のため遭難事故が絶えなかった。漁師たちは冬の厳しい漁撈に耐え、舟歌「安房節」を歌いながら励まし合った。冬に輝く赤い星(学名カノープス)は「布良星」と呼ばれ、亡くなった漁師の魂だと伝承されてきた。青木繁は神話にも造詣が深く、こうした背景のもと「海の幸」が誕生した。

早逝した青木繁の没後50年にあたる1961(昭和36)年、風光明媚な布良海岸には県営のユースホステルが開設された。当時の田村利男館山市長は、青木繁ゆかりの著名な画家らに呼びかけて基金を募り、翌年「海の幸」記念碑を建立した。

しかし近年、水産業衰退に伴う過疎化が進み、1998(平成10)年にユースホステルが廃業となり、国有地が返還された。隣接地にあった記念碑も撤去が命じられたが、保存を求める住民運動により、市が国有地を借り上げる形で解体を免れ、現在に至っている。

◇青木繁「海の幸」100年のまちづくり

名画「海の幸」を所蔵する石橋財団は、2005(平成17)年に「青木繁《海の幸》100年」展を開催し、全国的に注目された。これを受けてNPO法人安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラム)では富崎地区コミュニティ委員会と協働して、「〝青木繁《海の幸》100年〟から布良・相浜を見つめる集い」というまちづくり企画を開催した。

このとき小谷家当主から「昔のままの住宅を残し、地域活性化に貢献したい」との発言があり、まちづくりへの機運が高まった。2008(平成20)年に「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(以下、保存会)」が設立され、NPOフォーラムは事務局を付託された。

漁村集落の人びとは、これを契機に芸術や歴史文化への関心が高まり、地域活性化への希望が灯った。布良崎神社の氏子からは、祭礼の神輿がヒントになって「海の幸」の構図が生まれたのではないかという説も生まれ、地域への誇りが蘇ってきた。保存会メンバーは、小谷家や周辺の草刈りなどの環境整備、ウォーキングガイド、講演会・シンポジウム、調査研究など、多様な活動を進めてた。まさに市民学芸員である。国交省の「新たな公」モデル事業や文化庁の地域活性化事業等に選定され、先駆的な活動として評価を得てきた。

◇3つの〝あ〟のふるさと学習からまちづくりへ

21世紀を迎える頃、いよいよ小規模校となった館山市立富崎小学校では、漁村の誇りを育むために、「3つの“あ”のふるさと学習」を実践してきた。それは、伝統的な漁村文化を象徴する「青木繁・安房節・アジの開き」の頭文字である。

子どもたちは青木繁について調べ学習をし、青木繁の母校・福岡県久留米市立荘島小学校と交流をおこなった。「安房節」が絶えないように太鼓と歌を習い、アジを捌いて開き(干物)を作った。

2012(平成24)年、同校が統廃合により休校となってからは、「3つの〝あ〟のまちづくり」として市民活動が継承した。青木繁の〝あ〟は文化財とコミュニティファンドづくり、安房節の〝あ〟は漁村の歴史や生活文化の研究、アジの開きの 〝あ〟は食文化とコミュニティビジネスとして、3本の柱をまちづくりの核とした。こうして、主婦らが中心となって漁村の伝統料理「おらがごっつお(我が家のご馳走)」のレシピ集やイラストウォーキングマップが誕生した。

◇青木繁「海の幸」誕生の家・小谷家住宅の保存活用

2009(平成21)年に小谷家住宅は館山市指定文化財となり、保存会が当主と交わした覚書に沿って管理団体となった。文化財指定の際には、市から緊急に修復すべき箇所の指摘を受けたが、条例により修理費用は所有者負担と謳われていた。

小谷家当主夫妻の居住部は物置を増改築して管理棟に移し、文化財建物は修復し公開することとした。総事業予算は約4,600万円と見込まれ、保存会では広く入会や寄付を呼びかけた。

同年、全国の美術関係者らも保存修復に賛同しNPO法人青木繁「海の幸」会(以下、海の幸会)を発足した。しかし2011(平成23)年の東日本大震災により募金活動は困難をきたし、総事業予算を縮小せざるを得なくなった。著名な画家によるチャリティの青木繁「海の幸」オマージュ展が企画され、全国巡回の募金活動を展開していった。

行政もまた、館山市ふるさと納税において「小谷家住宅の保存活用に関する事業」を指定する寄付の受け入れ体制を整えた。小谷家当主・保存会・海の幸会・館山市が4者協働を図り、話し合いを重ね、2ヵ年にわたる修復工事に着手した。予算の縮小により削減された小谷家の造園整備や進入路坂の手すり設置、屋内の造作・設営等は、保存会の積立金や文化庁の補助事業により、市民参加型のワークショップとしておこなった。

こうして 2016(平成28年)年春、小谷家住宅は青木繁「海の幸」記念館として新しい生命が吹き込まれた。民間運営のため一般公開は土日のみであるが、来館者は年間3,000人を超えた。「友の会」として広く賛同者を募り、現在は全国から400名を超える支援ネットワークに広がっている。

◇漁村の誇りを育む歴史文化

「海の幸」誕生を支えた小谷家の生業は、これまでの定説で漁家とされていたが、近年発見された古文書等から、当主の小谷喜録は教員や村会議員、帝国水難救助会布良救難所の看守長などの要職に就き、村政に深く関わっていたと分かった。

さらに、明治期の書画や教科書をはじめ、韓国の王族末裔の書や幕末の雛人形なども納戸から見つかっている。なかでも、水産伝習所長の関沢明清の書簡には、生徒が実習で世話になった謝意とともに「日本重要水産動植物之図」を贈ると記されている。これはパリ万博に出品された日本初のカラー図版の魚貝図であり、小谷家に今なお3枚が掲示されている。青木繁もこの魚貝図を眺めていたと考えられており、滞在中に友人へ宛てた絵手紙には40種もの魚貝名を列挙している。

この水産実習には、キリスト者の内村鑑三が教員として同行し布良を訪れている。内村の自著によると、神田吉右衛門翁と出会って、毎夜語り合ったことが人生の転機になった旨記されている。

神田は富崎村長であり、アワビ漁を村営化して漁港や道路の改築、漁具の改良、遭難救助、避疫病院や小学校の開設など、モデル的な村政をおこなった「まちづくりの先駆者」であった。

美術史と水産史が結びついて新たな地域像が描かれ、忘れ去られた偉人たちが掘り起こされていった。先人の知恵に学ぶことが、まちづくり活動へのさらなる原動力となっている。

神田村長が作った富崎小学校は廃校となってもなお、住民の心のより所である。館山市は売却の方針をもっているが、私たちはまちづくり拠点として活用する方策を提言すべく検討中である。