文人の足跡を手賀沼畔に訪ねる〜館山との縁=『なかま:千葉歴教協』

千葉県歴史教育者協議会報「なかま」掲載

文人の足跡を手賀沼畔に訪ねる〜館山との縁

NPO法人安房文化遺産フォーラム 池田恵美子

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小春日和の文化の日。千葉歴教協2011年秋の見学会に参加しました。首都圏のベッドタウンである我孫子市で、文化の薫り高いまちづくりが進められていることに感動しました。

まず、予想以上の収穫と感じたのは、11月1日に新設オープンしたばかりの杉村楚人冠記念館です。2年前に自治体が遺族から邸宅を譲り受け、広い庭園は購入、建物は市文化財に指定して修復し、公営の記念館として開館に至ったと伺いました。

館山では、戦跡と里見氏稲村城跡に続く文化財保存の市民運動の成果として、画家の青木繁が滞在した「小谷家住宅」が市指定文化財となりましたが、市条例では個人所有文化財の維持管理費は所有者負担とされています。かねてより《海の幸》が描かれた漁村・布良は美術界の聖地といわれていたこともあり、私たちは全国の画家や美術関係者の方々と連携を図りながら、「青木繁《海の幸》記念館(仮称)」を目ざして修理基金を募っているところです。我孫子市の事例は大きな希望の光となりました。

そして、私たちのもうひとつの関心ごとは、柳宗悦と嘉納治五郎の人脈でした。宗悦の父・柳楢悦は海軍水路部の軍人で海洋測量の第一人者です。その技術を買われ、近代水産業の先駆者・関澤明清とともに、後の東京水産大学・海洋大学となる水産伝習所を創立します。官立の水産講習所となった1901年には館山実習場が開かれ、今なお同大学の研究施設がおかれています。

宗悦の兄・柳悦多は水産講習所を卒業後、館山で日本最初の内燃機関搭載の漁船を建造し、魚の研究や水産事業を行ないました。その一方、旧制安房中学で柔道や野球の指導にあたっており、講演中に関東大震災に遭遇、校舎の倒壊により殉職しました。悦多の遺児は、長男・悦孝が染色家で女子美術大学長となり、次男・悦清は長年安房高漢文教師として勤め、私の恩師でした。

宗悦の母は、楢悦の三番目の妻・勝子といい、講道館柔道の創始者として著名な嘉納治五郎の姉です。治五郎の甥にあたる悦多が、安房中柔道の礎を築いたといっても過言ではないでしょう。また、治五郎が校長を務めていた東京高等師範学校は1902年より館山で水泳練習を始め、今も筑波大学館山研修所がおかれています。当時、水府流太田派の古式泳法を極めた同校の水泳師範・本田存は、地元の安房中をカッパ中学と異名をとる水泳日本一に導き、古式泳法も伝えた功労者です。1919年には、安房出身の在京学生を支援するための安房育英会が設立され、文京区に開かれたという記録がありますが、その敷地は講道館の一部であったともいわれています。

私たちの暮らす一地方の視点から中央を俯瞰すると、興味深いネットワークが見えてきます。さらに柳家の家系図を整理してみて、意外なつながりに気づきました。まず、宗悦の次男・宗玄は、志賀直哉の四女・万亀子と結婚しているのですね。また、宗悦の姉・直枝子は仁川の総領事を歴任した夫・加藤本四郎と死別し、母勝子と暮らす邸宅を購入しますが、東郷の紹介で海軍軍令部長の谷口尚真と再婚したため、弟・宗悦夫婦が我孫子に暮らすことになったようです。宗悦の妹・千枝子の夫・今村武志は、朝鮮総督府内務局長、朝鮮史編集委員を歴任、戦中戦後は仙台市長を務めており、その息子・今村成和は法学者として国家補償という概念を提唱した北大名誉教授です。朝鮮との関係も、それぞれの立場によって、兄弟姉妹は複雑な思いであったかもしれませんね。

たくさんのヒントを得ることができ、充実した一日を過ごせました。ありがとうございました。