国際協調の時代と東京湾要塞の変貌・関東大震災の復興

●国際協調の時代と東京湾要塞の変貌●
大正10年(1921)11月から翌年2月まで、アメリカのワシントンにおいて海軍軍備制限と極東・太平洋に関する国際会議が開催された。この会議では、第一次大戦後の極東における戦勝国間の相互関係と、アジア諸民族に対する支配体制がつくられたので、後にワシントン体制と呼ばれた。この各国間の戦略的な意図ともいえる国際協調のなかで、安房地域に関わる軍事的な要衝である東京湾要塞の変貌を概観して見る。

第一次大戦のドイツ敗戦によって、極東での列強の勢力関係が変動し、ヴェルサイユ条約によって山東地方の旧ドイツ利権や、赤道以北の太平洋諸島の委任統治権などを獲得した日本は、急速に中国や太平洋に進出していった。しかし、アメリカは太平洋や中国への進出を意図して、日本を牽制する機をうかがっていた。また、イギリスも帝政ロシアの崩壊があったので日英同盟を廃棄して、極東における新たな国際関係をつくる国際会議開催を計画していた。この間、各国とも戦後における軍備の近代化に財政が逼迫していたので、軍備拡張競争は大きな負担になっていた。こうして会議はアメリカの主導で開催され、軍備制限問題に関してはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大海軍国が、極東・太平洋問題に関しては、これらの国のほかに中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルをくわえた9ヶ国が参加したのである。

開会当日、アメリカ国務大臣ヒューズは「アメリカは建造中の巨艦15隻61万㌧を率先して廃棄する」と発表するとともに、軍備制限案では、建造・設計中の主力艦(戦艦と巡洋艦)の全部と現存の老齢艦の一部を廃棄して、主力艦の総トン数の比率をアメリカ5:イギリス5:日本3の割合にする「比率の軍縮協定」を提案した。日本はこれに対して10:10:7の比率を主張したが、結局海軍の要求する対米7割の比率は実現しなかった。しかし、日本が主張した太平洋の要塞施設の現状維持の要求は認められた。

ところで、日本海軍は、「帝国国防方針」によりアメリカを仮想敵国として、アメリカ海軍と対抗するための「国防上ノ第一線艦隊」を構想していたので、明治44年(1911)以来、艦令8年未満の戦艦8隻と巡洋艦8隻とを主力とする、いわゆる「八八艦隊」計画に基づいて建艦していた。このような軍備増強のために軍事費全体が、政府歳出総額の半分を占めるまでになり、財政上、政府は海軍の軍縮を望んでいた。こうしてワシントン海軍軍縮条約調印によって、主力艦などの保有量が制限(米英各15隻・日本9隻)されたことで、未完成の艦艇建造は中止に追い込まれた。結局、「赤城」と「加賀」は航空母艦に改装され、また主力艦の「生駒」など6隻は解体し、「安芸」など4隻を撃沈すると決定したのであった。

海軍のこのような事態に対して、陸軍技術本部では多数廃艦される艦載砲や、「八八艦隊」計画で装備する予定になっていた大口径砲塔を利用できれば、要塞整備計画がより経済的になるだけではなく、要塞砲としての威力が大きいので、火力の増強策になると考えた。すぐに海軍艦政本部や参謀本部、築城本部などの関係機関と折衝が重ねられ、大正11年(1922)に40基近くの艦載砲の陸軍への移管が合意されたのである。それまで陸軍が製造予定にしていた大型榴弾砲の完成を延期し、新型カノン砲の開発も中止にした。

この後、陸軍は約6ヶ月にわたって艦載砲を陸上用の砲塔砲台に改修する研究をしながら、海軍当局との間で整備計画をすすめ、運搬方法や改修作業に関する協議もおこなった。陸軍は正式に40基の要塞配備を決定して、翌年には2連装の45口径20㌢カノン砲から40㌢カノン砲まで、5種類の40基すべての艦載砲受取りを完了した。ところが、艦載砲を陸上用の砲塔に改修しても、現実には運搬の方法や据え付けの方法、または砲塔砲台への動力供給の面など、多くの難問を抱えていた。陸海軍の間では、最大限の技術協力を進め解決した課題も多かったが、実際の配備作業では極めて困難をともなうこととなり、砲台の場所の地形や砲塔の種類により多様で複雑な工事形態が求められた。こうして工場において砲塔の改修作業や、現地での砲台建設工事の進み具合に応じて、各砲台の建設現場には、120㌧起重機や100㌧巻き揚げ機などを設置し、1923年から32年までの約10年間にわたって、各要塞での設置工事が続けられていった。壱岐要塞では「土佐」の40㌢カノン砲が配備され、東京湾要塞の洲崎第一砲台では「生駒」の30㌢カノン砲が配備されるなど、東京湾要塞・対馬要塞・壱岐要塞・鎮海湾要塞の各要塞では、かつてない強力な艦載砲が要塞砲として配備された。アジア太平洋戦争では、陸軍は東京湾要塞など20の要塞と、北千島臨時要塞など5つの臨時要塞に命じて、警急戦備・準戦備・本戦備と段階的に臨戦態勢を整えながら、対米英の開戦を迎えていったのである。

各要塞では、要塞重砲兵連隊を主要兵力として、配備した火砲の多くは28㌢榴弾砲やクルップ社製15㌢榴弾砲などの旧式のタイプであった。日本全体の各要塞の戦力配備を見ても、たとえば対潜水艦や防空能力は貧弱であり、陸海軍の連携も不十分であったので、沿岸要塞としてもっている防御機能は期待できなかった。しかし、戦争末期の本土決戦体制のなかでは、主要な要塞では従来の火砲を新型に切り替えたり、対潜水艦攻撃に対応した15㌢カノン砲などの新型火砲を装備して強化を図っている。

この間、東京湾要塞は、大正12年(1923)の関東大震災により大きな被害をうけたので復旧作業のなかで、前述のような艦載砲塔の配備によって要塞の強化が図られていった。昭和3年(1928)から4年間にわたる工事によって、巡洋艦「生駒」の主砲である45口径30㌢カノン2門入砲塔1基が洲崎第一砲台に、また巡洋艦「鞍馬」の副砲と思われる45口径20㌢カノン2門入砲塔2基が、大房岬に配備されたのである。その際に、航空機から砲台を隠すために、植樹などで偽装を施した痕跡を今も見ることができる。国際的な軍縮のなかでの要塞の見直しと軍備の近代化、そこでおきた関東大震災による復旧と、それにともなう東京湾要塞での要塞砲の火力強化は、陸海軍の連携による日本列島の不沈空母化の第一歩となっていった。

●関東大震災の復興●
関東大震災によって壊滅的な打撃を受けたが、安房の人びとはどのように復興させていったのか。当時、人材の育成を第一にあげて、教育や文化を重視する地域づくりや観光振興に取り組んでいた。大正から昭和初期にかけて、教育や文化の面で大きく変化した時代である。就学率で見ても日露戦争後には義務教育が97㌫を超え、いっきに識字率が高まった。第一次大戦後になると工業化を背景に都市化がすすみ、社会生活の大衆化が文化として浸透していった。なかでも教育の面では、中学校の生徒数が急増していくとともに、地域の人びとの熱意によって、教育機関が拡充されていった。

たとえば那古町においても、学ぶの場を開設してほしいとの要望は強く、大正6年(1917)に、まず小学校高等科を卒業した女子を対象に、和裁を主要教科とした補修科2年と研究科1年をもった那古実業補習学校が開校した。後に男子も対象にして夜学2年課程が開設された。大正15年(1926)には、さらに那古町立青年訓練所が開設され、那古実業補修学校の生徒たちも週1回の軍事教練を受けている。

また那古町にあった水産講習所は財政難を理由に、大正6年(1917)に廃止されていたが、多くの人びとは実業教育振興の声をあげていたので、議会でも専門的な中等教育機関として復活させる決議となった。世論の高まりのなかで、安房農業水産学校と北条町立北条実科高等女学校の2つの職業学校が設置されたのである。

大正11年(1922)に開校した安房農業水産学校は、本校農業部を南三原村和田に、分校水産部を館山町に置いた。開校した年にはまだ校舎がなく、那古町にあった千葉県水産試験場の建物を借用し、また館山町の農商務省水産講習所の建物などを仮校舎や寄宿舎とした。しかし、水産部独立の世論は大きく、翌年には県立移管と同時に水産部は独立し、千葉県立安房水産学校として再出発することになった。

北条町には、関東大震災後に治安のため駐屯していた憲兵隊兵舎が、そのままに置かれていた。この建物を利用して女子対象にした裁縫や調理などの実業教育をということで、大正15年(1926)3月、北条町立北条実科高等女学校が設立された。当時、女性たちはタイピストや電話交換手などの職種に進出して、いわゆる職業婦人と呼ばれていた時代となり、安房地域でも学ぶ場をつくって、女性たちが職業的にも自立していく道が模索されることになった。

ところで、大正期の特色として、大衆文化や余暇などが全面に出てきた時代であった。新聞や雑誌、ラジオや映画などマス=メディアが急速に進展して、それまでの一部の富裕な市民たちだけはなく、普通の市民たちもその担い手となった大衆文化が誕生している。全国的にも新聞や雑誌の発行部数が飛躍的に伸び、たとえば『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』では、100万部を超える発行部数があった。また、『中央公論』などの総合雑誌や岩波文庫のような低価格で大量に発行する書籍などが出版文化の先駆けとなった。大衆娯楽雑誌『キング』の発行部数も100万部を超え、大正7年(1918)に創刊した雑誌『赤い鳥』は、児童文学ブームの火付け役となった。さらに、余暇を利用して家族や仲間で気軽に旅行に出かける時代となり、さまざまな観光案内書や旅行ガイドブックが発行された。行楽地では旅行客を対象にした観光振興が図られていった。

そして、大正14年(1925)、東京や大阪でラジオ放送が開始されたが、ラジオ劇やスポーツの実況放送は大きな人気を呼び、すぐにラジオ放送網は全国に拡大していった。また、活動写真と呼ばれていた映画は、当初は弁士の解説つきの無声映画であったが、大正期に大衆娯楽として観客数が増大したので日活・松竹などの映画会社は国産映画の制作に乗り出していった。1930年代に入ると、トーキー(有声映画)の制作や上映となった。

大正7年(1918)に那古船形駅が、翌年には安房北条駅が開設されると、安房地域には海路だけでなく鉄道によって訪れる旅行者が増加した。なかでも北条を中心に行楽地としての取り組みがはじまり、行政施策としても海水浴客や旅行者の便宜を図る施設や情報案内などのサービスをおこなうようになった。那古でも海水浴場の設備を充実したり、貸ボート・ヨットや娯楽場などがつくられ、さらに夏場には海水浴客や観光客を対象に納涼盆踊りや映画祭、花火大会などが開催された。関東大震災直後に那古寺境内に宿泊業者らが中心に大衆演劇や浪曲、映画などを興業する「那古クラブ」が設立され、賑やかな楽隊を登場させて活動写真や芝居などの呼び込みをするなど、行楽地的な雰囲気を高める役割を果たしていった。

都市部の人びとからはじまった文化的な意識の高まりは、大衆文化や旅行ブームを生み出し、その結果、生活様式も大きく変わることになる。当然、那古など館山湾岸を中心とした地域は、大都市東京など都市部からやって来る多くの旅行者たち、避寒避暑客や海水浴客、参詣客によって、直接的な文化交流の波を受け、観光地としての大衆文化が色濃く刻まれていった。そのような時代のなかで関東大震災後の復興事業を見ると、地域産業の立て直しとともに、観光振興を通じて震災からの復興を推進する取り組みがなされていった。市街地の復旧のなかでも、建築物のデザインや商店街のまちづくりに、その影響を見ることができる。

●世界大恐慌の時代●
第一次大戦が終結してヨーロッパ諸国の復興が進み、その商品がアジア市場に再登場してくると、開戦以来の好景気とはうってかわって、日本経済は苦境に立たされることになった。大正9年(1920)に、欧米に先んじて戦後恐慌が発生するだけでなく、大正12年(1923)の関東大震災によって、日本経済は大打撃を受けることとなった。そして、昭和4年(1929)10月、アメリカから世界大恐慌がはじまった。

米英両国の景気が沈滞したことで、米英両国や東南アジア向けの生糸・綿製品の輸出量は激減した。政府の緊縮財政もあって日本経済は著しい不況におちいり、多くの企業が操業短縮や倒産に追いこまれた。そのなかで労働強化や賃金引き下げ、さらには人員整理によって打開しようとした。政府は低利融資など経済界への救済策を講じる一方で、重要産業統制法や工業組合法を制定して、産業統制やカルテル結成をすすめていった。

その頃の農村の状況を見ると、生糸輸出の激減によって繭価が暴落して大きな打撃となり、昭和5年(1930)には米価も暴落して豊作飢饉となり、翌年には逆に東北や北海道で大凶作になるなど、農業恐慌は深刻化していった。その結果、欠食児童の増加だけでなく子女の身売りなどが続出し、農村は危機的な状況になっていた。

生活の困窮は労働運動を激化させ、昭和6年(1931)には労働争議だけでも戦前の最大件数となり、農民運動でも地主の土地取り上げに抵抗する小作争議が増えて、地主との間で激しい闘いとなっていった。

安房地域での経済恐慌の影響を教育の分野で見ると、安房中学の志願者数が、昭和2年(1927)から昭和8年(1933)の間だけ、定員150名のところ132〜146名と推移して定員を割る事態になっている。また、卒業生の異動では、学業半ばにして経済的な理由で退学している数が、この時期に際立って多く入学当初の約3分の1におよんでいた。なお、昭和7年(1932)には、学業半ばになった青年たちのために、実業補修学校補修科は那古青年学校と改称し開校するなど、学ぶ場を保障していった。

このような危機的な状況を脱していくために、農業面での技術の改良を図っていく取り組みを見ると、昭和8年(1933)に那古町亀ヶ原に千葉県農事試験場安房分場が開設されたことは、安房地域の農業にとって画期的なことであった。初代分場長になった山川峰吉は、果樹栽培の権威者であり、とくに接木の名手であった。果樹栽培をはじめ農業改良や普及事業に関わって、安房分場は那古はもちろん安房地域全体に大きく貢献していった。なお、この施設は昭和42年(1967)に館山市山本に移転し、千葉県暖地園芸試験場と改称されて今日にいたっている。