幕末から明治維新へ

●幕末の安房と戊辰戦争

1868(明治元)年1月、徳川慶喜の旧幕府側は、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃れた。慶喜の命を受けた勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛が交渉し、同年4月には江戸城が無血開城されたものの、奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩と東征軍との戦いは続き、9月になってその中心とみられていた会津若松城が攻め落とされた。

この経緯のなかで旧幕府海軍の副総裁榎本武揚らは、咸臨丸などを率いて品川から脱走し、一時館山湾に停泊していたといわれる。その後、北海道にむかい箱館の五稜郭に立てこもって抵抗している。また、歩兵奉行の大鳥圭介が率いる1600名の部隊は下総市川に、1500名は上総木更津に向かって新政府軍に抵抗したものの鎮圧されている。そのなかで請西藩の藩主林忠祟自らは、脱藩して新政府軍と戦い、館山から伊豆へ渡り、小田原や箱根などに転戦し、最後は降伏している。

館山市那古地区の芝崎には、江戸期文久年間(1861〜64年)に創業した湯屋があった。そこの主である和久太平は、明治に入って銭湯業の傍ら、近所の子弟を集め私塾を開いて漢学などを教えていたが、興味・関心をもった出来事をメモ風に『三才袖日記』に書き留めていた。その日記のなかに「十七日天気南風・・・軍艦七艘・・・」と館山湾に停泊していた榎本艦隊のことや、請西藩林忠崇が兵を率いて那古の宿場で昼食を食べたことなどが記載されている。

館山地区にある長福寺には、この出来事の痕跡という「寄子萬霊塔」と呼ばれる供養碑がある。石碑の台座に刻まれた「一番組人宿 相模屋妻吉」という人物が、林忠祟から傭兵として雇われ戦闘のなかで死んでいった寄子たちのために建立したものである。刻字されている人宿とは、江戸時代に人手の仲介幹旋をする店であり、主人は寄親と呼び、寄親の身元保証によって奉公した者を寄子といっていた。人宿による人手の幹旋は奉公人だけでなく、大名や旗本などにもおこなっており、「番組人宿」とは急増する人宿を統制するため幕府がつくらせた組合のことであった。

明治と改められる4ヵ月前に請西藩藩主林忠祟らは、徳川家再興を旗印にして安房に侵攻し、史料によると、まず勝山藩を威嚇して武器や兵糧のほか、兵25人を供出させ、次いで館山藩に迫って出兵を強要したという。「徳川家三百年の恩顧」を標榜していた忠崇軍に対して、館山藩主稲葉正己はやむを得ず家臣の者から5名を選び出したものの、新政府軍と対峙することは考えていなかった。そこで表立った出兵という形は取らず、5名を脱藩者として扱い、出兵人数の不足は館山の一番組人宿であった相模屋の妻吉に請負わせ、寄子を集めて忠崇軍への出兵としたのであった。

この30数名の寄子は、忠崇軍に率いられて柏崎浦から海を渡って、やがて交通の要所である箱根に陣取った。そこで新政府軍を相手に決戦となり、激しい戦いのなかで人宿相模屋妻吉により傭兵として送り出された寄子たちは最前線に立たされ、一人も帰ることはなかったという。妻吉は犠牲になった寄子の霊を憐れみ寄子萬霊塔を建立して供養したのであった。

●明治維新と安房の人びと
館山市那古地区亀ヶ原の横峯の堂には、1825(文政8)年に亀ヶ原村で出生し、戊辰戦争に関わった山田官司の供養碑がある。この人物は幼い頃から剣術修行をし、後に江戸で北辰一刀流の千葉周作の門に入ったという。その後、免許皆伝となり、1853(嘉永6)年に『北辰一刀流剣法全書』を書き北辰一刀流の理論をまとめている。また勝海舟などと交流があったり、1862(文久2)年に八幡村名主根岸勝助や湊村名主の多田富五郎に剣術免許を与えるなど、幕末の安房で剣術指南をおこなっていたとの記録がある。

そして翌年、幕府が江戸市中の警備組織として浪士組を編成すると、山田官司はさっそく参加し、出羽国庄内藩の酒井忠篤指揮下になる新徴組が再編されると、一番組の隊長として取締付・剣術教授方の役職についた。後に、肝煎取締役という指導的地位につき、庄内藩から百石の禄を与えられている。1868(明治元)年の戊辰戦争では、旧幕府軍であった庄内藩と行動をともにし、新徴組を率いて庄内(現山形県鶴岡市)まで行って新政府軍と戦っているが、越後国境の番所である関川(現山形県温海町)での戦闘で受けた銃創がもとで、翌年5月に45歳で亡くなっている。

幕末から明治維新にかけての激動する社会情勢のなかで、治安が悪化していた安房の人びとのなかでどのような動きがあったか。1818(文政元)年、館山市九重地区大井の手力雄神社の神主の子として生まれた石井石見は、幕末の安房において治安維持に活躍したといわれる。川合村の金剛院から江戸の昌平坂学問所に学び、多くの勤皇の志士と交際をもった尊皇攘夷思想の持ち主であった石見は、1863(文久3)年に安房にいる同志を募って、治安維持を目的にした自衛組織である勤王隊を組織したといわれる。

1868(慶応4)年、新政府の王政復古政策に賛同していた石井石見は、江戸大総督府参謀であった大村益次郎の許可を得て、本格的な勤王隊である房陽神風隊を結成した。義勇軍的な役割をもった勤王隊は、陣屋や役所に出向いて、旧幕府軍の探索活動とともに領内の賊徒の取り締まりや異変勃発の鎮圧などの役割を申し出たとされる。

全国的には京都の神威隊や上総の神職隊などがあるが、同じように安房から戊辰戦争に関わって、激動する時代のなかに身を置いた人びとがいたのである。神風隊員には、「一、隊の者は、心を正しくして、猥りに動揺暴挙しない」「一、一時ある時は、すぐ屯所に集まり、衆議をうけて処置する」などの厳格な綱領が定められ、神官を中心に医師や名主など比較的裕福な家の若者80余人で構成されていた。出身地はほぼ安房全体にわたっているが、那古から参加したものはいない。さまざまな出来事があったなかで、とくに目立つような行動もおこすこともなく、国内が安定してきた1869(明治2)年頃には解散したといわれる。