安房の農業

安房の農業をさぐる〜明治期・近代農業に立ち向かっていった人びと
≪萬里小路通房と増田謹治をみる≫

全国的には工業にくらべると農水産業の発展は鈍く、殖産興業・富国強兵策のなかで食糧自給という点での振興が求められていた。とくに農業では依然として、米作を柱とする零細経営が中心をなしていたので、大豆粕などの金肥の普及や品種改良によって、単位面積当りの収穫の増加が図られていた。本格的な産業革命のなかで都市人口の増加により、米の供給だけでなく野菜や果物など、都市民の食生活上の要求に応える必要もでてきた。

千葉県令の柴原和は、県内農業の実情に「わが地方の如きは民業おおむね漁側の外に出でずかつ優れた産業なきを以てその業をすすめんとするに到ってすこぶる苦しめり」と指摘し、農業経済が貧弱で米作中心の自給農業にとどまっている状況の打開を図っていた。なかでも大消費地である東京市場が発展しているなかで、零細経営であっても園芸農業などが役割が増大していくと見ていた。当時、大都市での野菜需要が増加しつつあったので、近郊での促成栽培だけでなく、輸送コストがあえば可能であった。そのなかで野菜の遠隔地輸送の始まっていたが、高級品やジャガイモ、タマネギなどに限られていた。

安房の農業は、他の県内農業と同じように米や麦類、粟やきびなどの穀類や豆類を中心として、果樹類や桑、茶、葉煙草、菜種などであった。このような農業形態のなかに当時、最新鋭の促成栽培技術が導入されて、短期間で他の先進地をおさえて全国でもトップクラスの促成栽培地域になっていった。その背景には、自然環境や植生的な面での有利性があった。まず三方が海に囲まれて傾斜地が多いだけでなく、暖地という点で南面の傾斜地利用は、暖房その他の生産費が少なくて済むこと。また平均気温が高く、なかでも冬の寒さにおいて、いろいろな材料を確保して温床の適温を保つことができたり、病虫害の被害が少なく栽培が容易であったこと。そして、大消費地東京に船輸送で10時間ほどであり、とくに新鮮な野菜を春先に供給できる点では、他の地域にない優位性をもっていた。

このような条件を活かして、野菜などの促成栽培をすすめようとしたのが、萬里小路通房(までのこうじみちふさ)であった。この人物は、当時蔬菜の促成栽培技術では、日本の第一人者である宮内省御料局新宿植物苑主任技師で、農科大学園芸学講師であった福羽逸人を招いて講習会を開催している。福羽逸人は、1886(明治19)年より3年間フランスに留学し、帰国後に野菜園芸学を体系化して、その基礎をつくった功労者であった。現在も食されている温床の改良イチゴの品種は「福羽」と呼ばれている。

ところで、萬里小路通房は父博房が幕末の尊皇攘夷派公卿として国御用掛を務めていたことで、長男であった通房は幼少時より明治天皇と学問や日常生活をともにしていた。維新後の1870(明治3)年、4年間の英国留学を命ぜられ、帰国後は宮内庁御用掛などを歴任した通房は、その後天皇の侍従職として、1890(明治23)年まで勤めている。侍従職であった時に、風光明媚で温暖な安房の地にある嶺岡牧場を名代として訪れ、そのこと縁で北条海岸に別荘を持つことになったという。その後に侍従職を辞するが、翌年には貴族院議員となり、農水産関係の委員会に関わっていた。この頃、すでに北条町新塩場に移住し本宅としていたが、同時に野菜の促成栽培にも関心をもち、自ら農場を所有して福羽逸人を農事指導に招いている。率先してナスやキュウリの促成栽培を始めたのが、1895(明治28)年のことであった。

前年には地域において近代農業を普及していく組織として、郡長の吉田謹爾らは安房郡農会を立ち上げ、間もなく安房国農会と改称した。この会では福羽逸人による促成栽培講習会を開催し、農業改良を奨励していたが、たとえば那古地区においてもその指導を受けて、熱心に促成栽培農業に取り組んでいた三平芳松らがいたという。当時の資料はないが、1916(大正5)年の統計によると、栽培戸数3戸とあり、普通1温床フレームあたり、ナス25個、キュウリ250本、冬25個、西瓜3個、南瓜12個、越瓜150本として、那古では40温床フレームを出荷していると記載されている。

那古には、福羽逸人の門弟である増田謹治がいた。1876(明治3)年に三芳地区中村にある川名家の次男として出生し、後に千葉県立農学校の第1回卒業生となった。その後、宮内省に入って新宿御苑などで福羽の指導を受けていたが、さらに農業技術を磨くため、休職して自費でアメリカの園芸研究に出かけ、5年間カルフォルニアの農場で学んだ。帰国後は、那古町亀ヶ原の増田家の婿養子となり、再び新宿御苑に勤務し、さらに兵庫県にある武庫離宮付属の蔬菜花卉果樹温室担当になっている。1913(大正2)年に養父が逝去したため亀ヶ原の帰り、農業の傍ら那古町助役や町会議員になっている。自ら温室をつくりアメリカなどから苗木を購入して、果樹や園芸作物の栽培研究をすすめ、那古地域をはじめ郡内農家に対して最新の農業技術を指導したという。また、安房中学や安房水産学校でも、講師として後進の指導にあたるとともに、千葉県や県知事には、安房地域の気候風土が園芸研究と実験に適しているとして、県営試験場の設置を働きかけている。そのために自らの土地を無償で提供し、隣地の地主にも呼びかけ亀ヶ原の地に建設用地を確保したのであった。こうして、1933(昭和8)年に千葉県農事試験場安房分場が開設されたのであった。

初代分場長の山川峰吉は、果樹栽培のなかでも接木の名手であったといわれ、那古の果樹・園芸技術の改良に携わって桃・梨・枇杷などの生産が高まり、那古を訪れる人びとに、美味しい果物がもたらされることとなった。