安房の工業

●安房の商工業(地場産業)をさぐる

〜江戸時代後期の商人の活動と安房の農村工業

近世の手工業は、生産のために道具や仕事場を自己所有する小規模な手工業者や、都市の諸職人らによって担われていた。村々でも農民たちが零細な家内工業的な形態で多様な手工業品を生産していた。その代表が麻や木綿、絹などの織物業であった。戦国末期に朝鮮から綿作りが日本に伝わってくると、木綿は従来の麻とともに庶民の代表的な衣料になって瞬く間に普及していった。これを支えたのは伝統的な地機(いざり機)による女性の労働であった。そのなかで、たとえば河内の木綿や近江の麻などの織物産地が生まれ、絹や紬は農村でも生産されたが、金襴・緞子などの高級品は、高度な技術である高機などをもつ京都・西陣で独占的に織られていた。

都市の経済活動を見ると、幕府や諸藩の力では制御できないほど、商人や職人の活動が強力なものになった。なかでも、問屋の活動は全国的な規模でおこなわれ、とくに近江・伊勢・京都の出身で呉服や木綿などを扱っていた商人たちは、両替商を兼ねて大都市や各地の城下町を中心に出店していった。

館山の那古地区に住んでいた商人釜屋太左衛門と平兵衛父子は、近江国出身といわれ、1721(享保6)年に那古の地に来た近江商人であった。また、伊勢屋甚右衛門も同じ頃享保年間に那古に来た伊勢商人という。釜屋父子も伊勢屋も、普段は金物商を営んでいたが、客が求めている商品は、近江商人や伊勢商人の情報ネットワークを使って仕入れ、安房の人びとの要望にそれぞれ応えていた。

なかでも釜屋が関西方面から木綿や絹の反物や呉服を求めたときは、同時に那古から関西各地の綿花づくり農家が必要としていた干鰯や〆粕などの肥料を出荷するなど、安房の地場産業を振興させ、那古が繁栄してこそ自分の商売もあると町の発展に貢献したといわれる。また、伊勢屋も商売で得た財貨は惜しみなく町の繁栄や那古寺のために使った。

そのために釜屋も伊勢屋も、那古寺には多くの寄進をし那古寺を再建させていった。伊勢屋甚右衛門は、那古寺多宝塔のために萬人講をつくって資金を集め、また釜屋太左衛門は1759(宝暦9)年に那古寺観音堂欄間にある龍の彫刻を奉納している。観音堂高欄の擬宝珠のなかで、1756(宝暦6)年に製作された1つには、2人の名前が並んで刻んであり、この年の回向院での出開帳世話人としても2人は、那古寺のために献身的な役割を果たしたのであった。

近江商人は、全国隈無く出向いていく進取の気性に富んでいただけでなく、社会貢献として道路改修や貧民救済、あるいは寺社や学校教育への寄付を惜しみなくおこなった人びとであった。伊勢商人も商売では、安く良い商品を全国から仕入れて、顧客のニーズを考えた品揃いなど、流行に敏感な優れたセンスをもっていたとされる。

ところで都市の問屋は従来からの生産手段を使い、農民に資金や原料を提供して、農村に問屋制による家内工業をつくっていった。また、問屋・仲買と小売商人とが商品取引する場としての卸売市場は、都市と農村を結ぶ経済の心臓部であり、大坂の堂島にある米市場や天満の青物市場、江戸では日本橋・築地の魚市場や神田の青物市場などが重要な役割を担っていた。

その江戸の問屋や仲買の人びとが、那古寺を通じて交流があったと推察されている証が、1819(文政2)年に寄進された那古寺観音堂の扁額「圓通閣」である。この額は回向院で出開帳をしたその年に、江戸築地の日高屋與兵衛を願主に、鉄砲洲明石町の鹿嶋屋徳兵衛が講元となって、江戸の問屋や仲買たちが奉納したもので、安房とゆかりの深い松平定信が、1817(文化14)年に揮毫したものである。

那古寺観音堂の扁額「圓通閣」には、世話人として築地の駿河屋・参河屋・加奈川屋・瓦屋・森田屋・美濃屋・伊勢屋をはじめ、鉄砲洲の都賀屋、高輪の内田屋、八丁堀日比谷の網屋、深川木場の大羽屋と鹿嶋屋、深川平野町の上総屋、霊岸嶋の相模屋、そして新有場の和泉屋と中嶋屋の16名が記載されている。この人びとは、江戸湾岸に面した地域の築地や霊岸嶋、深川木場などの地名から見て、那古の生魚などを扱う水産業者や竹材などの建材の問屋、あるいは海運業者ではなかったのか。また、1775(安永4)年に奉納されたという那古寺境内にある日枝神社の石灯籠の台座にも、「奉寄附 江戸問屋」と刻まれ、万屋・柏屋・下国屋・山田屋・松屋・湊屋・松坂屋・松加屋などの問屋名がある。地元の那古にある商家名も含まれているところを見ると、江戸の問屋が那古に支店や出店があったのではないかと推察される。

安房の那古をみるとき、那古寺の存在から門前町というだけはでなく、大都市江戸という関係からいえば、安房地域の玄関口としての港町の姿が浮かんでくるのである。つまり、那古にあった地場産業と江戸の問屋や仲買との関係を通じて、安房と大都市江戸との間にあった経済的で人的な豊かな交流を強く感じるのである。

17世紀になって、農業を中心にした生産活動は進展し、さまざまな分野での発展があった。江戸や大坂、京都をはじめ港湾都市の豊かな商人のなかには、大名に貸付をおこない藩経済の実権を握っていくものもあらわれた。また、村々には貨幣経済が浸透し、商品作物の生産や農村での家内工業が広がっていった。1716(享保元)年、徳川吉宗は29年間の将軍在職中に、家康時代への復古を掲げて幕政の改革に取り組んだが、これを享保の改革と呼んでいる。

吉宗は徳川綱吉以来の側用人による側近政治をやめて、旗本の大岡忠相らの有能な人材を登用し、将軍自らが先頭に立って、財政の改革に取り組んでいった。まず倹約令によって支出をおさえる一方、大名からは石高1万石について100石を臨時に献上させる上げ米を実施した。また、幕領の代官らの不正を徹底的に摘発するとともに、検見法を改めて年貢率の引上げを図って、年貢増徴をめざした。さらに、商人資本の力を借りて、新田開発を進めて米の増産を奨励するとともに、サツマイモやサトウキビ、朝鮮人参などの栽培を奨励するとした。

そのなかで特筆すべきことは、日本で酪農を開始した場所が、安房の嶺岡山系に設置されていた幕府直轄の嶺岡牧であった。かつて里見氏が開いた嶺岡牧は、元禄大地震後は放置されたままになっていたが、酪農や畜産について蘭学から興味・関心をもった吉宗は、幕府直轄として嶺岡牧を復活させ、国内産の馬や和牛を放牧したり、外国産の馬を輸入して馬の改良をおこなったといわれる。なかでも1728(享保13)年には、馬と一緒に輸入したインド産の白牛を放牧して繁殖させ、白牛酪(バター)を生産したとされる。この出来事は、明治・大正期に安房が酪農や乳製品で、全国の最先端をいっていたことを忘れてはならない。

なりふり構わず幕政改革をすすめた吉宗は、「米将軍」とも呼ばれていたが、年貢増徴策は農民の反発をまねき、幕府直轄地でも百姓一揆が起きた。1732(享保17)年の西日本から発生した大飢饉では、米価が急騰し江戸の米商人が打ちこわしにあうなど、享保の改革は意図通りにすすまなかった。享保の改革の後、18世紀後半は幕藩体制にとって、大きな曲がり角となった。村々では、一部の豊かな農民が村役人を勤めたり、手持ちの資金に困窮した農民たちに利息貸して、結局は質にとって田畑を集めた。その耕地は今度は小作地にして貸し出し、小作料を取るような方法をとった。こうした有力な農民たちは豪農と呼ばれ、農村において商品作物生産や流通・金融の中心となって、地域を動かす担い手になっていった。

農業生産から年貢を取り立てて成り立つ幕藩体制の構造は、天保期頃になって行き詰まりをみせるようになった。人口の減少は農民が田畑を放棄して荒廃させることに繋がっていったが、同時に農業から離れた奉公人たちを集めて、分業と協業による手工業的生産をおこなう地域もあらわれてきた。

19世紀に入ると、全国的に一部の地主や問屋(商人)は家内工場を設けて、いわゆる問屋制家内工業を生み出していく。これらをマニュファクチュア(工場制手工業)といい、代表的なところが大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利など北関東の絹織物業などで、天保期頃から盛んになっていった。

封建社会が崩壊していく過程で、農村では小工業ながらも仕事場を広げて、家族以外に職人を雇ったり徒弟を集めて資本主義的な協業をすすめていく経営があらわれてきた。これらマニュファクチュアの多くは、数名から数10名の規模で、仕事場内の作業をいくつかの部分工程に分割して、各工程にはそれぞれ一定数の人を配置して、分業による協業体制になっていた。この分業に基づく協業がマニュファクチュアにおいて、労働生産性を高めて競争力をつけていった最大の理由であった。また、マニュファクチュアでは分業を進めるなかで、部分工程の作業を簡単にして機械出現の条件をつくったが、一方で各工程のなかで不足する部分の作業は、外部の下請けに出すことで対応していた。中心的な仕事場での生産が外部の家内的な作業が補っていたり、あるいは単純な協業による仕事場が集まって分業関係をつくったり、マニュファクチュアにはさまざまな形態があった。日本のマニュファクチュアでは、これまで製糸業や紡績業などに典型的に見られ、製糸業の場合では、19世紀半ばの開港後に大量の生糸輸出の影響を受けて上野や信濃、甲斐、武蔵など各地で急激に発展している。作業場を見ると6、7人の男が繭を煮たり揚返しの作業をし、女は糸取りをするという形での分業によって協業という生産形態であった。明治中期になって大規模なマニュファクチュアが出現するが、これは殖産興業のスローガンのもと、国家が紡績資本や製糸資本を支配下において編成していった近代的マニュファクチュアであった。

安房の農村工業を代表するのが、生産形態から見て団扇製造業であり、この地域を代表するマニュファチュア生産のはじまりであったと考える。漢字で団扇の「団」は丸い形を表し、「扇」は古代の中国では団扇のことを意味しているとされ、中国から日本へ団扇がもたらされたという。奈良期に外国の使者に対してシュロに似た木の葉で作った団扇を贈ったことが伝えられている。当時の団扇の素材は、檳榔のほか檜や竹を編んだもの、鳥の羽などが用いられたという。用途も涼をとるだけでなく、太陽の光や風塵を防いだり、高貴な人が顔を隠したり時には葬式の飾りにされていた。平安期には携帯に便利な扇子のようなものが考案され、団扇は家で送風具として使用された。

紙と竹の生産や工芸的な技がすすんだ江戸期になると、各地で特色ある団扇生産がはじまり、江戸でも丸竹の吾妻団扇がつくられた。団扇の需要が広がると、良質の竹材産地であった安房は江戸に向けて団扇用竹材を生産・販売する人びとがあらわれ、そのなかから団扇用竹材(シノダケ)の専門業者も生まれた。

安房にはごく身近な場所に良質の竹が自生していたので、古くから当たり前に竹を加工して笊や籠などの日用品を生産し、さらには専門の竹細工職人によって和傘や団扇、漁業用の魚籠や生け簀用の大籠などさまざまな竹製品が生産・販売されていた。とくに注目するのが、和傘屋の存在である。たとえば那古や正木の街道筋には、明治・大正期に数軒の和傘屋が製造・販売していたという。この和傘製造では、一般に竹製である傘骨を七輪で徐々に温めて曲げていく「骨だめ」と呼ばれる工程の後に、竹の柄の先端につけた「ろくろ」と骨、そして骨同士をそれぞれ糸で固定して骨組みをつくる工程、最後に紙を張ってうるしをかけ、装飾用の糸で内側の小骨を飾る工程など15ほどの工程があり、竹材のもつ性質を熟知して和傘製造がおこなわれたという。人びとが菅笠や蓑を雨具にしていた時代から和傘になるには、和傘が安価で大量に製造される必要があり、それにはまず良質の竹の産地があって、しかも竹細工の熟練した職人による家内的な分業体制があって可能になった。和傘製造の職人がいたことは、竹細工を生業とする人びとのすそ野を広げ、マニュファクチュア生産の形態を団扇製造の基盤にしていく可能性があったのではないかと推察する。

那古や船形において団扇製造が盛んになっていったのも、まず港の近くに数軒の竹材商があり、また明治期には館山と東京間に汽船が就航したことで、海運によって効率よく大量の搬出されたからであろう。1884(明治17)年頃に那古の正木地区で屋号を竹間屋といった岩城庄七は、東京から団扇職人を呼んで本格的な団扇生産をはじめたとの記録が残っている。竹製品のなかでも団扇製造はとくに熟練を要する作業工程があり、伝統的な技が求められていた。1882(明治15)年頃、それまで竹材・石材・米穀などを扱う販売業から団扇製造業に転身した岩城庄七は、後に房州団扇として全国に名を轟かせる素地をつくっていった。東京の団扇業者に竹材を販売するだけではなく、地元に近世より素晴らしい竹細工技術が、伝統的に伝わっていることを見抜いていた。

すでに那古屋船形の人びとは漁具などの竹細工や和傘製造を通じて、団扇製造をおこなう竹加工技術や、さまざまな作業工程を分業して生産するマニュファクチュア的な生産形態をもっていた。竹間屋の団扇製造に関わっていた人びとは、零細な小規模な農業経営のなかで、農村で生きていく知恵が活かされていた。つまり、安房特産の竹材を知りつくして竹加工技術を高めながら、積極的に東京での団扇製造の加工技術を取り入れていった。そして、販売先である東京の人びとの要望にあう団扇をつくるとともに、地域のあった大量生産が可能なマニュファクチュア生産形態をつくっていったといえる。那古に地場産業を根づかせていった先駆者としての岩城庄七の業績は大きい。