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映画『戦雲』安房地域上映会&監督講演会
〝戦雲〟というには、戦の到来を告げる不運な雲と言う意味で、〝いくさふむ〟と読むのは沖縄の方言。
石垣島・与那国島・宮古島など、台湾に近い島々が舞台のドキュメンタリー。
安房地域上映実行委員会の渡邉むつみさんは、沖縄県黒島という小さな島の出身。沖縄戦は他人事ではない!と、NPO法人安房文化遺産フォーラムの会員でもあって、平和社会の構築に尽力しています。房日新聞の寄稿もご一読ください。
【予告編(動画あり)】

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2002日韓歴史交流シンポジウム

 

日韓歴史交流シンポジウム(愛沢PDF)

[発表要旨]

浄土宗大巖院「四面石塔」の謎をさぐる

千葉県立長狭高等学校 愛沢伸雄

1.はじめに

館山市の浄土宗寺院大巖院にある石塔は、江戸時代初期の「元和十年」(1624年)との年号が刻まれ、四面には梵字(サンスクリット)、篆字、和風漢字、ハングルの文字によって、それぞれ「南無阿弥陀仏」と刻字された日本でも大変めずらしい六字名号石塔である。とくに阿弥陀信仰関係のなかで「四面石塔」と呼ばれ、その一面にハングルが刻字された貴重な石造物である。

この石塔で最も注目されることは、東側の石面に現在のハングル字形と違った古い字形のハングル(以下、「初期ハングル」とする)が刻字されているという事実である。なぜ房総半島南端の安房という地域に、初期ハングルが刻字されている「四面石塔」が存在するのであろうか。この石塔には大巖院の創健者の雄誉霊巖上人(以下、雄誉とする)の名と花押が刻まれている。石塔建立に関わる一人の浄土宗僧侶を通して、16世紀末から17世紀初頭の東アジア世界の動きのなかで、日本や朝鮮に関わる大きな出来事が関係していると推測している。

 

2.大巖院「四面石塔」建立をみる

石塔の四面のひとつに、初期ハングル字形で「南無阿弥陀仏」と刻字されている意味は何か。結論的に言えば、秀吉の「朝鮮侵略」に関わる何らかのことが「四面石塔」建立の理由ではないかと、私は推定している。まず、石塔建立の1624年が、1592年の文禄の役(丁酉倭乱)から「三十三回忌」供養の年であることを指摘しておきたい。なお、この年には「寛永元年度朝鮮回答兼刷還使」の来日があり、朝鮮国外交団に合わせて幕府から雄誉が朝鮮人刷還に関わる件を秘密裏に依頼された可能性がある。その結果、帰還を許された被虜人の「山村茂兵」夫妻が、「逆修」の儀式のお礼という形で水向付きの「四面石塔」を寄進したとの大胆な想像は許されないであろうか。

また、雄誉の動きから1624年をみると、この年に江戸日本橋近くを埋め立てて霊巖島を造成し、その地に道本山霊巖寺という大規模な檀林(僧侶養成)を創建している。安房の地においても江戸霊巖寺の創建にあわせるかのように、雄誉の弟子たちによって寺院が創それていることは何を意味しているのか。さらに、雄誉と朝鲜人僧侶やハングル刻字との関係では、大巌寺の三世住職であった雄誉が全国に布教活動するなかで様々な僧侶のネットワークをつくっていったことは間違いなく、家康と深い関係にあった檀林大巖寺では、朝鮮仏教の経典であるハングル版「阿弥陀経」と触れたり、雄誉の手元にあってもおかしはない。雄誉の浄土宗思想の原点には、新羅時代の元暁や中国唐時代の善導の念仏解釈があることは石塔の讃偈(経文)からも読みとれる。

こうしたさまざまな推定から、仏教的視点から東アジア世界でも、とりわけ日本と朝鮮の間の

「善隣友好と平和」を強く願った石塔が建立されたのでないかと推測した。

なお、富津市竹岡の浄土宗寺院松翁院には、「寛文十年」(1670年)に建立されたと思われる同じ形式のハングル刻字の「四面石塔」が存在する。しかし、全体的には粗雑な刻字であるうえに、なかでも讃偈の配列形式に大きな違いがある点を考えると、現在の時点では、大巌院の「四面石塔」を似せた可能性が大きい。

 

3.ハングル刻字「四面石塔」考察の糸口

初期ハングルが刻字されているといっても、石塔の四面に刻まれた文字以外は、全く関係史料がないので、今のところ建立の経緯が推定の域をでない。ただ、建立期の時代状況や四面にある讃偈など刻字されたものを「四面石塔」考察の糸口にしてみたい。

北面の梵字「南無阿弥陀仏」の右側に刻字されている「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修」や、左側の「干時元和十年三月十四日房州山下大網村大巖院檀蓮社雄誉(花押刻字)」の刻字に注目すると、刻まれている六字名号や讃偈から建立に関わる理念の推定が可能である。なかでも石塔建立に関わると思われる花押が刻まれる雄誉に関わる史料は、浄土宗関係文書のなかに確認されており、石塔建立の意味を知る重要な手がかりが得られると判断した。

まず、石塔に刻まれている中国唐時代の善導大師撰の讃偈「門門不同八万四 為滅無明果業因利剣即時弥陀号 一声称念罪皆除」の内容をみると「いかに法門が多いとしても人間の果業を明

らかにさせることが難しいので、それを克服しようとすれば、ただちに『南無阿弥陀仏』を一声唱えれば罪みな除かれる」という意味である。僧侶が檀家や信者に対しておこなう伝法『伝授抄』「亡魂往来之大事」の項では、怨霊がくるという人や死んだものの霊をみる人の心の苦しみをやわらげる偈文とされるので、今も救われない亡魂を供養し鎮魂しようという意に解釈した。

そこで推測されるのが秀吉の「朝鮮侵略」によって亡くなった人々や、拉致されて亡くなった朝鮮人たちの亡魂が今だに鎮魂されていないと憂えていたのが石塔に名が刻まれている寄進者「山村茂兵」夫妻であった。当時高名な雄誉に相談して「逆修」の儀式をおこない、夫婦で戒名をもらったことで水向け付の石塔を寄進した。その際、秀吉の「朝鮮侵略」で犠牲になったり、拉致されて異国の地で亡くなった朝鮮人たちのなかでまだ供養されていない多くの怨霊を鎮魂するために、「三十三回忌」の法要をしたと想像したい。

それではなぜ「四面石塔」の東面にハングル刻字を求めたのか。「山村」夫妻が拉致されてきた朝鮮人であったと推測して「逆修」の儀式と「四面石塔」建立とが、元和十(1624)年であった理由を考えてみたい。この1624年に来日した「寛永元年度回答兼刷還使」外交団は、朝鮮から拉致してきた人々の刷還を幕府に要求していたが、帰国を希望していた「山村」夫妻は雄誉の尽力もあり、幕府から朝鮮外交団との帰還の特別許可が下されたのではないか。それは「逆修」の儀式や「三十三回忌」法要のきっかけとなり、そして「四面石塔」建立の理由となったのではないか。それらのことは飛躍した見方であろうか。

また、「善隣友好と平和」という特別な思いにつながる「三十三回忌」法要を末永く人々の記憶に残したいと願った朝鮮人「山村」夫妻の気持ちを察した雄誉は、石塔のなかに四種字形による「南無阿弥陀仏」と刻字することで、祈念的な浄土世界の平和理念を埋め込んだのではないか。そのなかでハングル字形の刻字には、ハングル仏典として雄誉の手元にあったかもしれない『仏説阿弥陀経諺解』(1464年刊行・1558年双渓寺木版本1卷復刻版)を使用したと思われるのである。

ところで「山村茂兵」像を別の視点から考察してみる。まず、石塔は安山岩質の伊豆石を使った大変貴重なもので、江戸城の築城や幕府の許可した建築事業以外は、一般的に使用できなかった石材である。高さ2メートルと超える伊豆石を使用した水向け付き石塔には、雄誉の花押や誉号のついた戒名、また雄誉から「逆修」の儀式を受けたことが刻まれているので、朝鮮人と「山村茂兵」は、武士扱いを受けた石材を扱う高級技術者であったか、もしくは雄誉と寺院建設事業で何らかの深い関係をもった人物であったかもしれない。それを裏付ける出来事のひとつが、石塔建立の1624年に、雄誉は幕府の許可を得て江戸日本橋近くの葦原三万坪を埋め立てて霊巖島を建設し、その造成地に関東十八檀林のひとつとなった壮大な霊巖島を創建である。江戸初期におこなわれた埋め立て土地造成と檀林寺院建設という大事業は、幕府からの強い要望であるだけでなく、直接的な財政的支援があってはじめて可能であった。このなかで「山村茂兵」なる朝鮮人は石材を扱う高級技術者として、建設事業に密接に関わっていたのではないかと推測する。

このように関係史料もなく推測し謎だらけの「四面石塔」ではあるが、製作された時代背景やそこに関わる人物の生涯などを検討することで、「善隣友好と平和」と願う石塔ではないかと推測してきた。このなかで激動の時代に生きていた雄誉霊巖上人は、南房総から日本、朝鮮、そして東アジア世界のなかでとさまざまな人的交流を繰り広げながら、

「善隣友好と平和」の行動をとって、多くの江戸初期の民衆に支持されていた僧侶と想像できるのである。

 

4.雄誉霊巖上人の生涯をみる

雄誉は、若くして千葉(生実)大巖寺の住職となり、その後全国の浄土宗の布教や館山大巖院や江戸霊巖寺の開山に関わり、晩年には浄土宗本山の京都知恩院の第32世住職になった人物である。なかでも徳川家康や秀忠、家光と直接的な接触をしながら、幕府の宗教政策上において重要な役割を果たした僧侶と考えられるが、その割にはあまり知られていない。一説に三千人の弟子がいたとされ、多くの民衆からみると雄誉自身が信仰の対象になったようにも思われる。後に弟子たちによって雄誉上人伝が書かれ、さまざまな伝承がつくられていった。今でも少なくない数の雄誉自身が記したという名号や、一枚起請文が残っており、近年館山市立博物館では特別企画として「雄誉霊巖上人」展を開催した際に、それらが展示された。雄誉霊巖上人の生涯を簡単に紹介したい。

 

1544年 今川氏一族である沼津氏勝の三男として駿河国沼津(静岡県沼津市)出生する

1559年 下総国生実(千葉県千葉市)の浄土宗大巖寺(住職道誉貞把上人)に入門する

1575年 道誉上人より浄土宗の教義を伝授する

1588年 大巖寺3世の住職となる。大巖寺は徳川家康の関東入国時より祈願寺であり、檀林とよばれる僧侶養成のための重要な学問所であった。

1590年 大巖寺の住職やめ、修行のため奈良に旅立つ。奈良に霊巖寺を創建する(ここを拠点に

3年間浄土宗の布教に努めているが、秀吉の「朝鮮侵略」で拉致されてきた朝鮮人たちと接触した可能性が高い)

1593年 徳川家康から再び大巖院住職にと説得され、関東に戻る

1598年 京都伏見城にて豊臣秀吉が死去する(家康や前田利家らは朝鮮からの撤退の指示

する)

1600年 家康は小西行長らに朝鮮との講和を命じ、その際に捕虜160名を送還する。(「増上寺史料集」によると、この頃雄誉上人は増上寺における徳川家の法事の席で論争となり、結局浄土宗の教義を傷つけたという大罪で大巖寺から追放されその後に安房国大網に隠れ住み小さな寺をつくったという)

1603年 館山の大網村に大巖院を創建する(安房国主里見義康の寄進による。正式名は仏法山大網寺大巖院といい、京都知恩院の末寺として僧侶養成所も併設された)

1607年 雄誉は守永寺をはじめ、房総の各地に多数の寺院を創建する(この年5月に第1回の慶長度朝鮮回答兼刷還使467名が来日し、1418名の朝鮮人被虜人を連れて帰国する)

1609年 安房国主里見忠義が帰依し、大巖院に42石の朱印が与えられる。上総国佐貫城主の内

藤政長から善昌寺住職にと懇願され、大嚴院は弟子の霊誉にまかせ安房を離れる

1614年 里見忠義が伯者倉吉(鳥取県倉吉)に改易される。雄誉上人は法然の足跡を参拝する西

国行脚にむけて旅立つ(各地で寺院を創建し、再建している頃、第2回の元和三年度朝鮮回答兼刷還使が来日し、雄誉が接触している可能性が高い。西国行脚の途中では、伯耆国に改易された里見忠義を訪ねている)

1619年 雄誉、西国行脚を終え上総国佐貫に到着する(西国行脚では多くの弟子を養成し、西日本各地に30余寺の創建や再興に関わり、庶民のなかに浄土宗布教を強力にすすめた)

1621年 江戸茅場町に草庵をつくっていたが、徳川水軍の長である向井忠勝から沼地をもらい埋め立て地を造成し、浄土宗の檀林として江戸霊巌寺建設をはじめる

1624年 大巖院において、山村茂兵夫妻が逆修のための石塔、つまり「元和十年三月十四日」と刻字した「四面石塔」を建立する(この年12月に第3回寛永元年度朝鮮回答兼刷還使の来日があり、江戸霊巖寺が朝鮮回答兼刷還使に関わった可能性がある)

1629年 霊巖寺の諸堂が完成し、佐貫の勝隆寺から本尊を移す。雄誉上人は幕府より浄土宗総本山である知恩院の第32世の住職に任命される

1633年 知恩院が大火となり、徳川家光より再建の命を受ける(大梵鐘鋳造発願をはじめ、門末寺院への勧進帳と募財をすすめる)

1636年 知恩院の大梵鐘が完成する(この年第4回寛永十三年度朝鮮通信使が来日する。のちの天和三(1683)年に雄誉の弟子である源誉霊碩が著した『霊巖和尚伝記』(館山市立博物館蔵)によると、朝鮮通信使の上官が日光参拝の帰りに大巖寺を訪れたとの記載がある)

1641年 知恩院の諸堂が完成し、その落慶法要が営まれた後に、説法のために江戸に戻った88歳の雄誉上人は江戸の霊巖寺で死去する

 

 

布良崎神社

 

【主祭神】天富命(あめのとみのみこと)

【相殿】 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
金山彦命(かなやまひこのみこと)

【祭礼】7月20日過ぎの土曜日

【由緒】(境内の案内版より)
主祭神に天富命を祀り後に素戔嗚尊・金山彦命を合祀し安房神社の前殿(下社)となる。御祭神天富命は五世紀、神武天皇の勅命を報じ沃土を当方へ求むべく天太玉命の御霊(みたま)と四国の忌部氏(いんべうじ)を率いて紀伊半島・伊豆半島を経由しこの房総の地、布良の駒ヶ崎に上陸した。祖神、天太玉命を男神山(安房神社御祭神)に安置し、后神(きさきがみ)天比理刀咩命(洲宮神社御祭神)を女神山に安置し漸次開拓の歩を進められ北上し特に麻・殻(がじ)の播殖を奨励し、製錬技術に優れ建築並に漁業の技術を指導され、衣食住の神として崇敬される。安房神社を一旦は布良の神谷(かみやつ)に鎮座し此処を出発地点として現在の安房神社(吾谷山)に西暦717年に鎮座し、祖神、天富命を祀る。

二つの鳥居の間に富士山を拝むことができるビュースポット。

2019年、令和元年房総半島台風の直撃により、本殿は傾き、ご神木は倒れ、神輿蔵が潰滅して神輿も損傷した。4年がかりで全国の支援者から基金を募り、神輿を再建した。

布良は、房総開拓神・天富命(あめのとみのみこと)が四国の阿波忌部氏を率いて上陸した地といわれる神話のふるさとである。阿由戸(アイド)の浜の目の前には女神山と男神山がそびえている。天富命を主祭神とする布良崎神社は、安房神社の前殿である。

『海の幸』は、布良崎神社の神輿がヒントになったと地元では考えている。青木繁が布良にやってきたのは7月中旬、当時の祭りは8月1日。大天皇と呼ばれる1トン近い神輿を、海の男たちが跳ねながら担ぐ。御浜くだりの神事では、女装した男衆が神輿を担いだまま海に入り、襦袢がはだけた男衆の裸体も神輿も夕陽を浴びて黄金色に輝く。氏子総代だった小谷家はすぐ隣にあり、青木も感動したにちがいない。 『海の幸』は、左右の端はピントが甘く、未完成だという説もある。しかしそうではないと、 石橋財団石橋美術館の森山秀子学芸課長は語る。「神話好きの青木は多くの神話を描いている。『海の幸』も漁師の姿をしているが、これは人類が海からやって来て海に還るという神話を描いたもの」だという。まさに、夕陽の祭典のシーンに重なる。

祭礼は、7月下旬の日曜日。朝10時から祭典。夕方5時に出祭し、漁村の狭い路地を練り歩き、日没時には布良漁港で御浜くだりの神事。現代では海に入ることはないが、100年前の勇壮なシーンが目に浮かぶ。暗くなってから心臓破りの地獄坂を慎重に登り、安房自然村の駐車場で相浜の囃子踊り手と合流し、宵闇のクライマックスが続く。

はじめ布良に開かれた安房神社が現在の地に移った 717 年、その跡地に布良崎神社が創建された。1876(明治9)年に布良の大火があり、神社が消失したため、周辺区域では茅葺を禁止する誓約が立てられ、1878(明治 11)年より三州瓦の職人を家族ごと招いて、神紋の十三菊の鬼瓦をはじめ布良で瓦を焼き始めた。1880(明治13)年から積み立てた8年間の貯金を基金にして境内を整地した。1889(明治22)年に再び大火があり、被災した小谷家は瓦葺で現在の住宅を建てている。 その後、1908(明治 41)年に現在の社殿が造営された。

境内から海を眺めると、2つの鳥居の間に富士山が見え、本殿に上がると水平線が鳥居の上に重なるように設計されたビューポイントである。

城壁のような石垣は、マグロ漁の最盛期、伊豆稲取で水揚げした船が軽く不安定なため持ち帰った丸い伊豆石を、三州瓦の職人が工夫して積み上げた。関東大震災でも崩れることなく、今に残る文化遺産である。

古代の民俗風習において、神が宿る自然物が信仰の対象とされていた。神社の原点といえるのが磐座(いわくら)であり、社殿や鳥居は後年建てられたものである。村人は素朴な磐座に祈りを捧げ、磐座から暦を読み解いて季節ごとの潮の流れや干満を知ったという。冬至には、磐座の背が向く直線上の水平線(伊豆大島と伊豆半島の間)に太陽が沈み、夏至には、一の鳥居と磐座を結ぶ一直線上に日が沈む。

【論文】佐野一成

【第55回千葉県歴史教育者研究集会:地域分科会】
2022.2.23

館山発 地域と世界につながる戦争遺跡の保存活用

安房支部  佐野一成
(明星大学人文学部人間社会学科4年)

 PDF(佐野レポート)

1.はじめに

館山では30年以上にわたり、戦争遺跡の調査・保存・活用が進められてきた。それは、千葉歴史教育者協議会(以下、歴教協)安房支部の愛沢伸雄さんの授業づくりを契機として市民運動に広がり、エコミュージアムまちづくりを実践するNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(以下、文化遺産フォーラム)の活動へと展開していった。地域内外の交流・連携にとどまらず、日韓・日米交流やウガンダ支援まで幅広い。息長い市民活動はどのように変遷し、また人びとや地域社会にどのような変容をもたらしたのか。高校時代から活動に関わり、書きあげた卒業論文の一端を報告したい。

私がこのテーマを選んだ動機は2つある。1つは、私立安房西高校在学時、所属していたJRC(青少年赤十字)部の活動で、ウガンダ支援交流に関わっていた。学校統合や廃部を経て活動のバトンは3校に継承され、文化遺産フォーラムを窓口として、今年28年目を迎える。活動の原点は、愛沢さんが、千葉県立安房南高校の世界史教諭であったとき、戦争遺跡などの地域教材を活かした平和学習にあるという。現地にはAWA-MINAMI(安房南)洋裁学校と名付けられた職業訓練校も開かれている。

もう1つは、私が生まれ育った館山市波左間という小さな漁村にも、特攻艇「震洋」の基地があったということを愛沢さんから教わり、身近な足もとにも戦争の歴史があると知って驚いた。さらに愛沢さんは、戦争遺跡だけでなく、道路計画で壊されそうになっていた里見氏稲村城跡をはじめ、青木繁「海の幸」誕生の家など、様々な文化遺産の保存活用をおこなってきたという。私は人間社会学を専攻する学生として、学校教育から幅広い市民活動へと場を展開し、人びとや地域社会に影響を与えてきた愛沢さんと「文化遺産フォーラム」の活動に関心をもったのである。

2.卒論の概要

本論は四章で構成した。第一章では、婦人保護施設「かにた婦人の村」との出会いから、地域に根ざした平和学習の実践、「戦後50年」の取り組みなどをひもとき、愛沢さんの教員時代に焦点を当てた。どのように戦争遺跡の調査をすすめ、どのような授業づくりを工夫したのか、そこから保存運動へ展開していった経緯を明らかにした。

第二章では、戦争遺跡と並行して取り組んだ里見氏稲村城跡の保存運動の軌跡、「文化遺産フォーラム」立ち上げの経緯と設立、さらに「戦後60年」の取り組みなどに焦点を当て、地域から国際交流へと広がったプロセスを明らかにした。

第三章では、「文化遺産フォーラム」の掲げる「館山まるごと博物館」の取り組みに着目して分析し、多様な文化財の保存・活用を通じて、市民主体のエコミュージアムまちづくりがどのように進められていったのかに迫っていった。

第四章では、世界とつながる「館山まるごと博物館」として、「戦後70年」の取り組みや、ウガンダ支援交流が高校生から地域社会の市民連携に発展した広がりに注目しながら、「文化遺産フォーラム」の活動が今どのような挑戦の岐路に立っているのかを論じていった。

終章では、「足もとの地域から世界を見る」という理念で展開されてきた活動は、市民や地域社会にどのような変容を与えたのかを明らかにするとともに、自分自身の変容とこれからの課題について見つめ直す機会とした。

3.足もとの地域から世界を見る~授業づくりから地域づくりへ

愛沢さんは、社会科教員研修として1989年に訪問した婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村(以下、かにた村)」との出会いは、人生の転機になったという。売春防止法に基づいて、知的障害や精神障害を抱え自活困難な女性たちの生活を支える施設である。

旧海軍跡地の払い下げで開設された敷地内の中腹には「128高地」地下壕があり、「戦闘指揮所」「作戦室」というコンクリート製の額や龍のレリーフが残されていた。その真上の丘には、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が建てられている。ここで暮らしていた城田すず子さん(仮名)が自らの過去を告白し、仲間の慰霊を求めたことから、1985年に建立された。

足もとの地域に世界史的な出来事が眠っていることに驚いた愛沢さんは、教材化を目ざして調査研究に取り組み始めた。施設長である深津文雄牧師の「底点思考」の理念や、一人の女性が告白に至った生き様に焦点を当て、女子校であった安房南高校で平和・人権学習の授業を9時間にわたりおこなった。

従軍慰安婦問題の認識に伴い、戦争に関わって悲しみや苦しみ、怒り、葛藤を抱えた女性の生き方を、単なる同情を越えて、女子高生なりに自分と深く関わる問題として捉えるように変容していった。「何か自分たちにできることはないか」という考えが生まれ、「かにた村」のボランティアを始めた。深津牧師から「ウガンダ意識向上協会(以下、CUFI)」のスチュアート・センパラ氏を紹介され、安房南高校の生徒会は1994年から支援交流に取り組むことになった。

歴教協研究集会でも、「平和学習と地域の掘り起こし〜『かにた婦人の村』と従軍慰安婦問題」として発表した。足もとの地域から世界を見て、世界から自己に戻ってくるような視野を養い、一歩踏み出す行動を促す教育実践として注目された。

友情の証として「AWA-MINAMI洋裁学校」の設立が提案され、愛沢さんは2000年に現地を視察訪問している。愛沢さんの転出後も続いた活動は、2008年の学校統合を経て安房高校JRC部に継承されたが、2012年に同部は廃部となった。「高校生が続けることが大切」と考え、「文化遺産フォーラム」は安房西高校JRC部に声をかけ、部員らはこれを快諾した。20年の節目にあたった2014年は、活動に関わった歴代の各校卒業生や教員、支援した市民らが安房西高校に集い、安房南高校の女生徒のブロンズ像を記念に現地へ寄贈している。

2005年よりNPO活動から派生した「安房・平和のための美術展」が賛同し、17年にわたり作品の売り上げをチャリティ基金として提供されてきた。2018年には、NPO会員でもある館山市内の喫茶店主から「ウガンダコーヒーによる支援」を提案され、自然栽培のウガンダコーヒーのフェアトレードを活用するキャンペーンに取り組み始めた。10月を「ウガンダコーヒー月間」と位置づけ、安房地域の喫茶店やホテルなど約25店舗が協賛し、5年目を迎えた。

このように、足もとの地域から世界を見る愛沢実践は、四半世紀を超えて、授業づくりから地域づくりへ、そして世界へと広がっている。

4.戦争遺跡を活かした平和学習の実践

かにた村」の訪問を契機に、愛沢さんは1989年から戦争遺跡の調査研究に取り組み始めた。東京湾の入口に位置する館山は、幕末から台場が築かれ、明治期には東京湾要塞として重要な役割を担ったものの、近代史の先行研究はほとんどなく調査は困難を極め、交通費や書籍代ばかりでなく、マイクロフィルムのコピー代も高額で、かなりの私費を投じたことからもゆるがない信念と決意がわかる。

数少ない資料の中で「仮説実験授業」の教育方法を調査研究に活かし、常識にとらわれない自由な発想で歴史を組み立て、その裏付け資料を探していったという。たとえば、ハワイ真珠湾内のフォード島と館山湾内の館空基地や、沖縄県と千葉県、本土侵攻計画「コロネット」作戦と大本営の本土決戦などの地図をそれぞれ比較しながら仮説をたて、重要な近代史を明らかにしていった。

旧安房中学の教務日誌では、1945年9月3日から生徒全員が出校していないことに気づき、次に「米国軍による館山湾地区の占領」という資料を発見した。ミズーリ号降伏文書調印式の翌日から4日間、本土唯一の直接軍政が館山で敷かれていたということが判明した。一方、明治期に渡米した房総アワビ漁師の移民らが、日米開戦後に強制収容所へ移送されている。房総の情報収集に協力させられ、「コロネット作戦」や直接軍政時の行動に繋がっていた可能性も考えられる。

愛沢教育実践は、軍事的な歴史だけではなく、住民目線の調査にも重点を置いていた。本土決戦が想定された安房では、7万の兵の食糧供給のために花作り禁止令が出されたが、命がけで花の種苗を守った農民のおかげで、戦後の安房地域に花栽培が再び始まったという。実際に花農家の生徒もおり、房総では当たり前だと思っていた花作りが、戦争によって禁じられたという歴史に、生徒たちは心を痛めた。また、中学生がウミホタルを採取して供出し、軍部は照明弾などの研究を進めていたという史実も掘りおこした。生物の教師と協力し、平和学習の授業で生きたウミホタルの発光を見せる実験をおこなった。

こうした授業実践で、生徒たちはローカルからグローバルな視野を養っていく。これがまちづくりに広がり、ウガンダ支援や日米交流にもつながっていったのであろう。現在「文化遺産フォーラム」の活動を支えている会員には、愛沢さんの教え子が多い。高校時代に体験した授業の面白さが今なおその人達を惹きつけているのかもしれない。

5.戦争遺跡の保存・活用

1995年には市民とともに実行委員会を立ち上げて、「戦後50年・平和を考える集い」を開催し、聞き取り調査や調査報告の展示などをおこなった。さらに歴教協安房集会や全国大会での報告、報道をとおして、館山の戦争遺跡は地域内外から注目され、多くの平和学習が訪れるようになった。公民館講座やフィールドワークで市民の関心が深まり、戦争遺跡調査保存サークルが発足し、市民ガイドも誕生した。

2002年には、館山市と地方自治研究機構が共同で「館山市における戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」を実施した。その報告書によると、別表のとおり評価の高い戦争遺跡跡が多く、生涯学習資源としての活用と観光・交流面における活用の方向が示された。平和・学習拠点整備構想(マスタープラン)が検討され、「戦争遺跡を本市の固有性の一つとして、市民の歴史学習をはじめ平和学習や交流に活かした都市づくり、まちづくりを目指す」と記され、戦争遺跡活用を位置づけた館山市の目標像として「地域まるごとオープンエアーミュージアム館山歴史公園都市」を掲げている。

これは拠点をネットワークで構成し、さらに戦争遺跡が集中する3つのエリアをネットワークし、来訪者を滞在型に導く観光都市づくりの手法でもある。この報告書にもとづいて、「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」の公開が決定し、整備を経て、2004年に一般公開が始まった。

同年、愛沢さんはNPO法人を設立し平和学習ガイドなどを始めるとともに、第8回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会を開催した。翌2005年に赤山地下壕跡は館山市指定史跡となった。

6.「館山まるごと博物館」~エコミュージアムまちづくり

館山の大巌院には、江戸期建立のハングル「四面石塔」(県指定有形文化財)があり、秀吉の朝鮮侵略後の戦没者供養と平和祈念で建てられたと推察される。愛沢さんはこれを活用し、図書館の調べ学習を含む19時間の授業づくりを実践した。2002年には官民協働で日韓歴史交流シンポジウム、日韓歴史教育交流などを開催している。
2024年「ハングル四面石塔400年記念事業」

文化遺産フォーラム」では、このような地域遺産を活用する取り組みを「館山まるごと博物館」と呼んでいる。市民が主役となって、有形無形のあらゆる地域資源に対して調査研究、保全、展示・教育等の博物館活動をおこなうエコミュージアムまちづくりの手法である。「館山まるごと博物館」では市民が誇りを育 むとともに、地域課題の解決に向けて自ら活動の一歩を踏み出していることに特長がある。

エコミュージアムを施策として取り組んでいる韓国京畿道(キョンギド)では、「館山まるごと博物館」に注目し、市民団体の視察やメディアの取材が来日したり、愛沢さんが訪韓してシンポジウムに登壇したりしている。国際的にも評価された「館山まるごと博物館」の市民活動を4例紹介したい。

(1)里見氏稲村城跡を保存する会
1996年、房総里見氏の城跡群のひとつ、稲村城跡が市道建設で破壊されるという計画が起きた。「500年前の城跡が守れなければ、50年前の戦跡を守ることは困難」だと感じた愛沢さんが代表となり、史跡化を目ざして発足した。千葉県城郭研究会や文化財保存全国協議会などの助言を得ながら、城跡めぐりや古道ウォーキング、講演会などの文化活動を通じて、市民への啓蒙活動を進めた。メディア報道も追い風となって、署名は全国から1万筆以上集まった。世論が高まり、2000年に市道計画が中止となった。里見氏ゆかりの群馬県榛名町長や鳥取県倉吉市長・関金町長を招聘し、千葉県知事、館山市長とともに「里見サミット」を開催し、全国にも稲村城跡を周知していった。17年にわたる苦労と努力が実り、2012年に南房総市の岡本城跡とともに稲村城跡は里見氏城跡群として国指定史跡を実現した。「文化遺産フォーラム」の前身の一つでもあり、2012年に発展的解散となった。

(2)青木繁『海の幸』誕生の家と記念碑を保存する会
江戸期よりマグロはえ縄漁で栄えた布良という漁村は、近年では水産業衰退に伴い少子高齢化が深刻となっていた。小学校の統廃合問題を機に、「文化遺産フォーラム」が事務局を担って発足した。画家の青木繁が滞在し重要文化財『海の幸』を製作した「小谷家住宅」の保存を目ざし、市指定有形文化財とした。全国の美術家と連携を図って修復基金4,000万円を集め、2016年に青木繁「海の幸」記念館を開館した。2012年には同地区で歴教協安房集会を開催している。

(3)安房高等女学校木造校舎を愛する会
コンクリート校舎に建て替えられた1980年、安房南高校では1930年建築の第一校舎を保存することを決定した。後に県指定有形文化財となったが、2008年に安房高校と統合になり、日常的に使用されなくなった。文化財校舎の劣化を危惧した愛沢さんら元教員は、卒業生や市民に広く呼びかけて2017年に発足し、草刈りや掃除などの環境整備や、残された資料整理と歴史の調査研究を進めている。翌年には、県教委主催の見学会を「文化遺産フォーラム」が委託され、「愛する会」の協力で実施している。この3年間は、台風やコロナ禍で公開中止となったが、動画制作やオンライン講演会・写真パネル展などを通じて木造校舎の魅力を伝えている。

(4)房総アワビ移民研究所
明治期に渡米したアワビ漁師らの歴史調査を進めるため、「文化遺産フォーラム」から派生し発足。2005年に米国市民40名が来日し、米国歴史学者と堂本暁子知事の英語対談を含む日米シンポジウムを開催した。2017年に、アワビ漁師リーダーの旧宅(大正期建築・南房総市千倉町)の解体にあたり、襖の下貼りから数百枚の古文書を発見した。紙質や筆跡別に仕分け整理を進めていた2019年の台風15号により保管していた建物は全壊したが、水損資料を1枚ずつ回収して再生し、明治期の書簡を中心に500枚を超える解読調査が完了した。今月末には、米国側と日米オンライン会議を開き、調査研究の一部を報告する予定である。

7.人びとと地域社会の変容

授業づくりから地域づくりへ、多様な人びとが繋がって「館山まるごと博物館」は発展していった。今まで自分の地域には魅力的なものがないと思っていた人びとも、地域の魅力ある歴史文化を知り、誇りを持てるように変わっていった。

ここに至るまでの活動は、未知なるものを切り開く挑戦の連続であった。保守的な風潮が強かった安房地域では、愛沢さんの斬新なアイデアは異端なものとして批判を受けることもあった。「行政にたてつく教員」などと、謂れのない噂や、レッテルを貼られることもあり、苦悩は絶えなかったと思われる。しかし教え子の生徒たちをはじめ、愛沢さんの挑戦を理解し賛同してくれる人の輪が広がっていった。

愛沢さんは、「まちづくりはクラスづくりと同じ」だという。たとえば、文化祭で何かを企画するとき、多数決ではなく、「やりたい人がやり、やりたくない人はやらなくてもいいから邪魔をしない」とする。それが楽しそうなら、だんだんやる人が増えていく。この方式で、市民の興味をひくような仕掛けをおこない、興味を持った人びとを巻き込んでいくことで、文化財の保存・活用を成功させていった。

ガイドとして活躍するメンバー数人にヒアリングをしてみた。ある方は、釣りが好きで東京から館山に移住したが、戦争遺跡の講座に参加して以来、愛沢ワールドに巻き込まれていって生きがいとなり、人生の優先順位が変わったという。高校時代に教わったという方は、ウォーキングイベントに参加して再会し、地域史研究の面白さにはまったという。私と同じように、高校時代からウガンダ支援に関わっていて、今も働きながら活動に参加するという方もいる。タクシー業界の責任者の方は、ドライバーの観光研修を愛沢さんにお願いしたところ、参加者の意識が変わり、お客様への態度が改善されたという。

このように、愛沢さんがおこなってきた授業づくりや牽引してきた市民活動は、関わった人の興味を引き、巻き込み、それは個人の価値観や考え、行動を変容させることになった。そして一人ひとりの小さな変容が地域社会を変えていくことにも繋がっていった。地域社会の変容と言っても、一朝一夕に達成するものではない。市民一人ひとりが自ら暮らす地域社会を学んで、誇りを育み愛情を抱き、小さな一歩の行動を踏み出すということの積み重ねが、地域社会を変容させていく力になったといえよう。

かつて、館山は花と海の観光地に戦争のイメージは合わないといって、戦争遺跡の保存活用に反対していた地域だった。しかし館山は今、地域の個性の一つとして戦争遺跡を大切にするようになっている。市内の小中学校も、それぞれ赤山地下壕跡を初めとする戦争遺跡を見学したり、体験者の話を聞いたり、平和学習をおこなっている。ほとんどの市民に知られていなかった房総里見氏や青木繁の「海の幸」のことなど、今では当たり前に市民に知られ、自治体の「基本計画」にも、まちづくりの基本として謳われるようになった。愛沢さんの苦労は報われ、地域社会は変容している。

8.これからの課題

愛沢さんに今の課題を尋ねてみたところ、次の3つが挙げられた。

(1)赤山地下壕の公開が決定されたときの戦争遺跡保存調査委員会では、私有地にある掩体壕の保存も検討したはずなのに、いまだ実現していないことに行政の姿勢が問われる。例えば土地所有者から行政が借り上げれば、固定資産税の減免や草刈りなどの負担が軽減される可能性も考えられる。

(2)赤山地下壕跡の建設時期について、教育委員会は1944年以降を定説としているが、「文化遺産フォーラム」が独自に入手した米国の資料や元教育長の証言などで、日米開戦以前から掘り始めていた可能性が高い。教育委員会がこうした歴史的な事実を理解し、見直す立場で再検討する姿勢がない。

(3)若者が残りたくなるような地域づくりを目指してきたけれど、雇用の創出にはほど遠い。台風被災から続くコロナ禍でますます法人運営や財政は厳しい。

前の2つは、何度か教育委員会に話し合いを申し入れているものの、はっきりとした回答は得られないといい、理由は不明のままである。3つ目については、文化財保存や地域史の調査・まちづくり活動などは、本来行政が担ってきた分野であるが、授業づくりから始まった愛沢さんの活動は私費を投じて調査研究し、ボランティアでやってきたという経緯がある。「文化遺産フォーラム」設立後も多くの活動をおこない、地域の内外で評価され、地域に根ざした活動を展開するが、愛沢さんやスタッフの自己犠牲という側面があったことは否めない。多様な団体との協働により、財政安定のチャンスは何度かあったが、東日本大震災、台風被害、新型コロナウイルスによる災禍に見舞われるたびにピンチを迎え、現在にいたるという。今後の世代が愛沢さんらの活動をどう引き継ぎいでいくか、持続的な活動をどう成り立たせていくかは「文化遺産フォーラム」と次世代を担う私達のような若者の大きな課題である。

愛沢さんの挑戦は今もなお続き、現在は闘病生活をしながらでも、決して諦めることはなく、在宅療養をしながら調査研究をおこなっている。
本論文では、私のような若い世代の人間が、これからどのようにまちづくりをしていくべきかについて、洞察を深めることができなかった。人口減少や過疎化が進む中で、次世代の若者がどれだけ地域に関心を持ち、まちづくりに参加していくのかが、重要な課題であることには違いない。

しかし今回、愛沢さんと「文化遺産フォーラム」の挑戦を追ってきた中で、多くの人の関心を呼び、巻き込んでいく手法を明らかにし、人びとと地域社会の変容を学ぶことができた。同時に私自身もこの論文執筆を通して、生まれ育った地域を見つめ直し、自己を再発見し、新たな一歩を踏み出すスタート地点に立つことができたと思う。「市民が主役」という意図を汲み取り、「自分に出来ることはなにか」を問い続け、少しでも地域に貢献したいと願っている。そして、本論文を通して「館山まるごと博物館」の理念に触れ、まちづくりの手掛かりを得る人が一人でも増えれば、その波及効果こそ重要であり、この論文の意義であると言えるのではないかと思う。

そして、広島・長崎・沖縄などへ行く千葉県内の各学校は、ぜひ「文化遺産フォーラム」の講義やガイドを事前学習の一つとして取り上げていただけることを切に願っている。

Kamishibai: “Nansō Satomi Hakkenden”

“Nansō Satomi Hakkenden,” written by Kyokutei Bakin over 28 years, is the longest play in Japan. We have compiled it into a 15-minute digest and created a Kamishibai (picture story show) in both Japanese and English.
We are happy to accept requests for exhibits at events. If you are interested, we can also discuss loaning it out or selling it in an A3 pouch.

⇒ Japanese version

 

【第85回知恵袋講座】千倉とアワビとハリウッド(鈴木政和)

知恵袋講座は、NPOメンバーが講師となって、楽しく学び語り合う茶話会です。>

テーマ:千倉とアワビとハリウッド

語り手:鈴木政和 (NPO副代表)

日時:2024年9月29日(日)13:30~16:00

菜の花ホール(館山市北条1735) 

参加費:会員200円・非会員500円(お茶菓子付)

南房総市千倉町千田は、明治期に米国モントレーで活躍したアワビ漁師移民と日本人初ハリウッド俳優の早川雪洲の故郷です。ここで生まれ育った鈴木さんは、熱い思いで地域の歴史を調べて、語り継ぎ、日米交流を続けています。

※ 実施した過去の一覧 ⇒ https://awa-ecom.jp/bunka-isan/section/machi-03/

 

 

 

 

 

【房日】240912「四面石塔」建立400年記念行事

館山・大巌院の「四面石塔」
建立400年の記念行事を計画
11月にNPO法人安房文化遺産フォーラム

(房日新聞2024.9.12.付)

館山市大網の寺院、大巌院の境内にある「四面石塔」。江戸時代初期のものといわれ、今年で建立から400年になる。安房地域の自然や文化財などを生かした地域づくりを進めるNPO法人安房文化遺産フォーラムがこの秋、記念行事を計画している。

大巌院は、現在の千葉市にある大巌寺の3世住職、雄誉霊巌(おうよれいがん=1554~1641)が、安房国主だった里見義康の帰依を受けて江戸時代初期の1603年に開いた浄土宗の寺院。

県教育委員会のホームページ(HP)によると、石塔は玄武岩で造られているとみられ、高さは2・19メートル。石に刻まれた記録から、元和10(1624)年に建てられたとみられている。北を向いた面にインドの梵字(ぼんじ)、西面に中国の篆字(てんじ)、東面に朝鮮のハングル、南面に日本の古い漢字で、それぞれ今の日本の漢字にして「南無阿弥陀仏」と刻まれている。

このうち、ハングルは15世紀につくられた「東国正韻式」という古い文字で、100年ほどで消滅した。今の韓国国内にもあまり残っていない文字で、石塔が建てられた当時、すでに朝鮮半島でも使われていなかったと言われる。

石塔が建てられた年は、豊臣秀吉の朝鮮侵略から三十三回忌に当たる。このため、石塔は平和への願いを込めた供養塔と推測されるという。1969年に県の有形文化財に指定された。

安房文化遺産フォーラムの代表で、高校の世界史教員だった愛沢伸雄さんが、石塔を授業の教材にしたことを研究集会などで発表し、日韓の歴史教育者の間で注目されるようになった。

日韓の国民交流年だった2002年に館山市で開催された日韓歴史交流シンポジウムの際、来日した韓国・東国大学校の張榮吉(チャン・ヨンギル)教授は、石塔の東面に刻まれた文字は、古いハングルと漢字が併記された阿弥陀経の本が参考にされたとの見方を示した。この本は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に朝鮮半島に持ち込まれたとみられるという。

愛沢さんは「雄誉と里見氏の関わりや、江戸幕府の外交政策を見つめ直すことで、四面石塔から朝鮮との関係が見えてくるかもしれない」と話している。

記念行事は、11月9日にフォーラムが主催して行われる。第1部は、午前10時から大巌院で四面石塔の見学(無料)と、東京出身の在日コリアン2世の歌手、李政美(イ・ヂョンミ)さんの奉納コンサート(参加費1000円、定員60人)が行われる。

第2部では、午後2時から県南総文化ホールで歴史シンポジウム(資料代1000円、定員300人)が開かれる。「四面石塔の謎をさぐる」と題して、里見氏研究者の滝川恒昭・敬愛大学特任教授や、石造文化財研究者の早川正司氏、大巌院の石川達也副住職ら6人が登壇する。

シンポジウムは予約不要だが、李さんのコンサートは予約が必要。詳しくは、安房文化遺産フォーラムのHP=二次元コード=へ。

ハングル「四面石塔」400年記念 コンサート&シンポジウム

(斎藤大宙)

ハングル「四面石塔」400年記念 コンサート&シンポジウム

2024年11月9日(土)

館山市の浄土宗大巌院にある四面石塔(千葉県指定有形文化財)は1624年に建てられ、和風漢字・中国篆字・印度梵字・朝鮮の古いハングルで「南無阿弥陀仏」と彫られています。豊臣秀吉の朝鮮侵略にかかわり、平和祈願をこめた供養塔と考えられています。400年前の先人に思いを馳せ、東アジア世界の善隣友好と市民の誇りを育みましょう!

午前はステンドグラスの美しい本堂で朝鮮民謡を楽しみ、午後は歴史シンポジウムを開催します。 続きを読む »»

【房日】240830- 文化財保存活用地域計画の作成スタート

文化財保存活用地域計画の作成スタート 館山

(房日新聞 2024.8.30.)

館山市内にある文化財の保存と活用に向け、同市教育委員会は市文化財保存活用地域計画の作成作業を始めた。第1回計画作成協議会を開催し、委員13人を委嘱した。2026年7月の文化庁認定を目指している。

文化財保護の方針や具体的な事業の実施計画など定める計画。県内では現在、9市の計画が文化庁認定を受けている。安房地域では鴨川市がすでに計画作成作業を進めている。

少子高齢化などを背景に、地域の貴重な文化財を後世に保存、伝えていく担い手の確保などが課題となる中、計画を通して地域の文化財への関心を高め、地域一体となって文化財の保存、活用を進めていこうという。

館山市には、小網寺の梵鐘や金銅密教法具(いずれも国指定重要文化財)、茂名の里芋祭(国指定重要無形民俗文化財)など国、県、市の指定文化財が101件、国、県の登録文化財が16件ある。計画ではこうした指定文化財だけでなく、未指定の文化財の把握なども進め、保存・活用につなげていく。

計画作成協議会は、学識経験者や文化財所有者、商工、観光、行政関係者らで構成。市役所であった初回の会議では、石井浩己教育長が各委員に委嘱状を交付し、計画作成への協力を求めた。

会長には、千葉経済大学教授の菅根幸裕氏、副会長にはNPO法人安房文化遺産フォーラム共同代表の池田恵美子氏を選出。その後、計画作成の目的や運営方法、今後のスケジュールについて話し合った。

今後、来年度までの2年間で5回の会議を開催し、26年3月に計画を完成させ、同年7月の文化庁認定を目指している。

また、計画に多様な意見を反映するため、市民や市にゆかりのある人を対象にアンケートも実施する。アンケートは専用フォーム=二次元コード=からか、市役所本館、市立博物館本館、市コミュニティセンターで配布しているアンケート用紙からも回答できる。期間は9月30日まで。

⇒ 文化財保存活用のためのアンケート