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’26 安房反核フェスティバル

2026年9月12日(土)9:30~16:00
館山市コミュニティセンター

<展示ホール>
・「原爆と人間」写真展
・広島市の高校生が描いた原爆絵
・軍事要塞化する沖縄パネル展
・地図と写真で見る安房の戦跡

<第1集会室>
09:30~ アニメ映画(原爆関連)
12:00~ すいとん食堂
13:10~ 広島の原爆遺構巡りをして
(鋸南中3年  東海瑠さん)
13:30~ 被爆体験の朗読
14:30~ 原爆記録映画

<和室>
・タオル人形ダンス:劇団あおいSORA
・読み語り:ひつじ雲
・大型紙芝居:庄田美樹子
・歌:え~ころ♡バーバンズ
・歌と演奏:結ちむぐくる

主催:館山市被曝者同友会
共催:安房反核フェスティバル実行委員会
後援:館山市・鴨川市・南房総市・鋸南町・館山市社会福祉協議会・4市町教育委員会・NPO法人安房文化遺産フォーラム ほか

 

かにた婦人の村に建つ「噫従軍慰安婦」碑

愛沢伸雄:NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表

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千葉県館山市に、売春防止法に基づく長期婦人入所施設「かにた婦人の村」(以下「かにた村」)がある。社会から見捨てられた女性たちの救済に命を賭けて生きた深津文雄牧師によって開かれたコロニーである。「かにた村」の丘から眺望できる海上自衛隊館山航空基地は、戦時中、館山海軍航空隊として全国屈指の実戦訓練部隊であった。東京湾要塞地帯として重要な役割を担っていた館山には、今なお多くの戦争遺跡が残っている。旧海軍の128高地砲台跡であった「かにた村」の中腹にも、本土決戦に備えて作られた地下壕があり、今なお「戦闘指揮所」「作戦室」と彫られた額と天井の龍が残っている。

● 深津文雄牧師の「底点志向」

1909(明治 42)年、深津文雄は福井県の日本基督教会敦賀教会の初代牧師の次男として生まれた。2 歳で兄を、3 歳で母を亡くした後、父の植民地伝道について台湾、満州とわたり、11 歳で父をチフスで亡くした。貧しさのなかで誰にも感謝されずに死んでいく父の思いを忘れまいと強く思った。しかし、牧師の子どもであったことで「ヤソ!シンジン(耶蘇、信心)」と石を投げられ、牧師になることを嫌っていた。

1927(昭和 2)年、旧制一高の受験に失敗した深津は神の声を聞き、即座に父の母校である明治学院神学部へ向かった。すでに入試が終わっていたものの懇願し、受験が許され合格した。1930(昭和 5)年、軍国主義の嵐のなかで明治学院神学部は分離され日本神学校となり、翌年に満州事変が始まった。幼いときから台湾や満州で植民地住民の惨めさを見てきた深津は、日本の帝国主義的な侵略行動をはっきり否定した。両国間に割って入り、平和をつくる反戦義勇軍ができれば、命を賭けてやってみたいと真剣に考えていた。

卒業後、聖書研究を続けるなかで「今の社会がこのように誘惑にみち、強いものが勝ちの社会であるかぎり、かならず独りで生きていけない犠牲者がでる。その人のためには、どうしても広い別天地が要る。それさえあれば、このような悲惨は繰り返さないですむ」と考えた。さらに 1937(昭和 12)年に来日したヘレン・ケラーに出会い、「古い時代には、強い人は弱い人を踏み越えて前進しましたが、新しい時代には、強い人が弱い人の手をとって一緒に進まねばなりません」という言葉に大きな影響を受け、生涯の決意を固くした。

対米英戦争の勃発とアジア太平洋戦争のなか、平和のための有効な方法を見出すことができないまま悩んでいたが、深津の教会には身寄りがなく迫害された朝鮮の人々がよく集まっていた。学生のいない寄宿舎を生活の場に提供したり、お互いの乏しい食糧を分かち合う共同生活をした。深津を支えたのは、ドイツの牧師テオドール・フリートナーのイエス的実践であった。「もっと小さいものにしなければ、私にしたことにならない」という神の言葉に添って、独身・服従・無所有を誓ったディアコニッセ(奉仕女)を従え、社会の底辺の、また下の底点に目をむけたフリートナーの実践を、深津は「底点志向」と表現した。「底辺よりもさらに下の底点にいる売春婦に転落せざるを得なかった女性たち」の更生と救済の事業に、日本初のディアコニッセとなった天羽道子とともに立ち向かっていくことになる。

● 生きる喜びを生み出す「コロニー」の誕生

日本では長い間、公娼制度のもとで売春がおこなわれていた。明治以来の廃娼運動はあったが、売春婦の救済には手を焼いていた。1956(昭和 31)年、売春防止法が成立した。この法律は国家による売春を否定したものだが、根本的な売春婦の更生や救済とはいえなかった。要保護女子とよばれる女性たちのなかには、どうしても社会復帰の難しい者がいる。戦後日本の貧困という現実のなかで、不道徳というだけでは、売買春問題の解決は困難であった。だからこそ、困難な事業に立ち向かっていくディアコニッセ運動の独自な課題になると考え、「コロニー」建設に向けて歩み始めた。

1957(昭和 32)年初秋、城田すず子(仮名)が訪ねてきた。深津は行政の厚い壁をたたきながら、「コロニー」開設の援助を訴え続けていた。翌年、大泉学園町に小さいながらも婦人保護施設「いずみ寮」が完成した。一番喜んだすず子だったが、3 ヵ月後に風呂場で脊椎骨折をし、以来 6年半にわたる入院生活となる。「生きる値打ちがないように思われる人間でも、息をしているかぎり、その生を楽しむ権利がある。…弱者の楽園をつくりださねばならない」と語る深津の言葉に、すず子は深く賛同し「私みたいな境遇の者のために、みんなが力を合わせてパンを生産し、それによって自活する工場とコロニーがほしい」と夢を語った。

それから 4 年間、深津は賛同者を求め、国会や厚生省への陳情に明け暮れた。その間、12 歳の末娘が膠原病となり、長期入院の病床で「雪のない暖かいところがいい」とコロニーの開設を願っていたが、実現を待たずに夭逝した。深津牧師は国有地払い下げの運動を続けた。1962(昭和 37)年、やっと手にしたのは館山市の旧海軍砲台跡というひどい土地であった。しかも資金問題をはじめ、難題が山積していた。総事業費 1 億円のうち、国の補助金はわずか 1,130 万円にすぎなかった。深津は命をすり減らすほど走り廻った。矯風会の久布白女史が募金活動の先頭に立ち支援してくれ、ドイツのベデスダに属する 7,000 人の奉仕女たちが奔走し 3,000 万円近く資金を集めてくれるなど、世界の人々がコロニー建設に向けて手を差しのべてくれた。

こうして 1965(昭和 40)年 4 月、亡き末娘の遺言どおり温暖の地・館山に、社会福祉法人ベデスダ奉仕女母の家「かにた婦人の村」が開かれた。「かにた」とは近くの山間を流れる小川の名前である。

ここには、今までの施設のような高い塀や鍵のかかった門、監視のきく構造、あるいは厳重な罰則はない。一時的な短期保護施設とは異なり、社会から見放された女性たちが終生ここにいることになる。心を癒し人間性を回復するためにも、本人の自主性自発性を待った。編み物、農耕園芸、調理、陶芸、製菓、畜産、洗濯、購買、看護などの仕事が生まれ、そのなかで女性たちは本当の働くことの喜びをつかんでいった。自分で生産したものを自分で消費するなかで、自分が欲しいものは真心をこめて作るようになった。この村では、役に立たないと思われた人が役に立ち、生きている意味を与えられ、新しい人間観が生み出されていったのである。

深津牧師のいう「底点志向」とは、いつまでも底点として存在することではなかった。ひとたび底点に到達したら、それを速やかに底点でないものに変化させることであり、さらに社会全体の変化に波及させることが求められた。「かにた村」の理念と実践は、つねに地域や日本、そして世界にひらかれていた。婦人保護事業では、実績でも日本での先駆的役割を果たし、また地域の福祉運動や平和運動にも積極的に参加している。

● 城田すず子という女性

すず子は、1921(大正 10)年、東京深川の裕福なパン屋で長女として生まれた。母を亡くした後、家業は破産し一家離散となり、借金のかたに 17 歳で神楽坂の芸者屋へ子守奉公に行った。そこで最初に水揚げされた社長から性病を移され、転売された後、戦争とともに従軍慰安婦となっていった。南方の島々では、ジャングルにカーテン 1 枚を隔ててしつらえた慰安所には朝鮮人を含む女性たちが集められていた。すず子は台湾、サイパン島、トラック島、パラオ島を経て、空襲に逃げまどいながら九死に一生を得た。

終戦とともに米兵相手の娼婦になる。自暴自棄なその日暮らしのなかで、自殺や心中を繰り返しながらも死の淵から蘇り、からだを張って戦後を生きてきた。30 歳を超えた頃、夜学を出て看護婦の勉強をしていた妹が自殺したことに衝撃を受け、夜の世界から足を洗いたいと願う気持ちがはじめて芽生えた。

すず子が矯風会婦人福祉施設「慈愛寮」の門をたたいたのは、1955(昭和 30)年秋、売春防止法が成立する前年であった。教会の礼拝にも通いはじめ、祈りのなかで「一人前の人間になろう」と心に誓う。この頃体調を崩したすず子は子宮摘出となる。入院の朝、念願だった洗礼を受けた。しかし生きる道が見つからずふたたび転落しかけた 1957(昭和 32)年初秋、すず子は絶望のなか、東京都板橋区の「ベデスダ奉仕女母の家」を訪ね、深津文雄牧師と出会った。ベデスダは「あわれみ」を意味し、「かにた村」の前身である。

● 石のさけび~「噫従軍慰安婦」の碑

すず子は二度の危篤を乗り越え、手厚い介護を受けていた。車椅子の彼女には作業らしいことはできなかったが、編み物、陶芸、製菓に精をだし、本もよく読み、色々な人々にも手紙を書いた。牧師やディアコニッセたちの献身的な指導は、すず子に心の平安と生きる喜びを与えた。ともに生きるなかで心の奥の襞をもさらけ出すようになり、20 年後の 1984(昭和 59)年、戦時中に従軍慰安婦だったという衝撃的な告白にいたったのである。

深津先生へ。
…軍隊のいるところには慰安所がありました。 看護婦 とみまがう特殊看護婦になると、 将校相手 の慰安婦になるのです。兵卒用の慰安婦は1回の関係で 50 銭、また1円の切符 を 持って列 をつくっています。 私たち慰安婦は、 死の影 とともに横たわっていま した。 からだを洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首を切 ってしまいたいと思った かしれません。 半狂乱でした 。
…戦争が終わって 40 年にもなるというのに、戦死した兵隊さんや民間の人のことは各地で弔われるけれど、戦争で 引っ張られていった 慰安婦 に 対する声はひとつも聞こえてき ません。中国 ・ 東南アジア・南洋諸島・アリューシャン列島で、性的 欲望 のため 体 を提供させられた娘たち は、死ねばジャングルの穴にす てられ、 親元に 知らせるすべもない 有様です 。途中で 足手まとい になった女はほっぽり出され 、 荒野をさまよい 凍てつく山野 で食もなく、 野犬か オオカミのエサになり、骨はさらされ土になり、粉々に砕けた手足は陣地の表示板になりました。 それを 私は見たのです 。 この目で 、女の地獄を 。
戦後40 年 過ぎても健康を 回復できない私ですが 、 今は 幸せです。 …1 年 ほど前から 、 祈っ
ていると、かつての同僚の姿が まざまざ と 浮 か ぶのです 。どうか鎮魂の 塔 を建ててください。
それが言えるのは私だけです。 生きていても 、そんな恥ずかしい 過去 を話す人はだれもいない
でしょうから… 。

世界で初めて、日本人としてただ一人、このような体験を語った城田すず子(仮名)の願いにこたえ、深津牧師はヒノキの鎮魂碑を建てた。翌年 166 人の浄財により、「噫従軍慰安婦」と刻まれ、天を突き刺すような石碑が建てられた。「噫(ああ)」というのは「苦しみのあまり、声にならない」という意味をもつ。奇しくも、旧海軍司令部壕の真上に建っているのである。

韓国で従軍慰安婦問題に取り組んでいた梨花女子大学のユン・ジョンオク教授がこの石碑を訪れた。日本国内やアジアでの調査結果を発表したハンギョレ新聞の記事は韓国内に反響を呼び起こし、韓国 KBS テレビのドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』制作につながった。番組は、すず子の衝撃的な証言から始まり、従軍慰安婦の歴史的事実にふれ、日本各地の慰安所跡を丹念に追った。最後に「噫従軍慰安婦」の碑の前で、深津牧師が石碑建立の経緯と謝罪の意を述べ、従軍慰安婦であった人が名乗り出ることを強く願い、番組をしめくくった。元従軍慰安婦としての勇気ある証言は「かにた村」からアジア世界へ発信され、日本国内や世界の良心的な人々の共感を呼び起こし、大きな運動になっていった。

「もし生まれ変われるなら、普通のお嬢さん、普通のお嫁さん、普通のおばあちゃんになって、孫に囲まれて生きてみたい」と笑顔で語ったすず子は、1993(平成 5)年、71 歳の人生を閉じた。内臓はぼろぼろに病んでいたが、安らかな死に顔であったという。2000(平成 12)年に逝去した深津牧師とともに、村内の会堂の地下にある納骨堂に眠っている。

● 平和学習から始まった高校生のウガンダ支援活動

地域教材として従軍慰安婦問題を通して平和学習の授業を受けた千葉県立安房南高校の生徒たちは、世界的視野を養い、自分たちには何ができるのかを模索しはじめた。「かにた村」の深津牧師より、アフリカ・ウガンダ共和国のNGO ウガンダ意識向上協会(CUFI)のスチュアート・センパラ氏を紹介された。ウガンダは、少年兵が銃を持つという内戦が終結したばかりで、エイズが蔓延し孤児があふれていた。センパラ氏は傷ついた子どもたちが自立できることをめざし、米山財団の助成により日本のアジア学院で農業を学び、ウガンダで自給自足を伴う教育を実践していた。

同校生徒会ではウガンダへの支援を決定し、1994(平成 6)年の文化祭よりウガンダ支援バザーや募金活動をおこない、約 1,000 ドルの支援金を送りはじめた。安房南高校のウガンダ支援は、生徒たち自身が身近な問題として関心をもち、平和的な国際貢献として取り組んだボランティア活動であり、「子ども権利条約」の理念を活かした生徒会活動の実践である。同校の家政科廃止に伴って廃棄予定だったミシンを送ったことが契機となって、2000(平成 12)年には若者の自立をめざした職業技術訓練施設が現地に建設され、同校と同じ「AWA-MINAMI(安房南)洋裁学校」と名づけられた。

安房南高校は、1907(明治 40)年に県下で2番目の女学校として安房郡立女子技芸学校が開校。安房高等女学校を経て、100 年にわたり地域の女子教育に大きな貢献を果たしてきたが、2008(平成 20)年春、統廃合により安房南高校の歴史は幕を閉じ、地球の裏側にだけその名が残った。

ウガンダ支援活動は、統合先の安房高校のJRC(青少年赤十字)部を経て、2013(平成 25)年より私立安房西高校JRC部へと引き継がれた。地域の若者からまかれた平和の種子は3校にバトンが手渡され、NPO法人安房文化遺産フォーラムや安房・平和のための美術展などの市民活動団体とともに 20 年を迎えた。2014(平成 26)年には活動に関わった卒業生や市民が一堂に会し、支援交流のあゆみをまとめた記念誌を英日語版で発行するとともに、元安房南高校美術教師の船田正廣氏が制作した同校生徒(セーラー服)銅像を友情の証としてウガンダへ寄贈した。

【房日】260825_館山市文化財計画 文化庁が認定

館山市文化財計画を文化庁が認定
地域ぐるみで保存・活用へ

(房日新聞 2026.8.25.)

地域総がかりで文化財の保護や活用を目指す、館山市の「市文化財保存活用地域計画」が文化庁の認定を受けた。安房地域では鴨川市に続いて2例目。2035年度までの10カ年計画で、将来像「歴史文化をまちづくりに活かす街・館山~ふるさと館山フィールドミュージアムの実現~」を目指す。

同計画は、各市町村の文化財保護に関する方向性を示すマスタープランと、保存・活用に関する具体的な取り組み内容のアクションプランの両方の役割を担う総合的な法定計画。2018年の文化財保護法改正によって作成が可能になった。 続きを読む »»

【房日】260813「日本の戦争遺跡」に執筆参加 安房の戦跡紹介

「日本の戦争遺跡」に執筆参加
NPOの2人  安房の戦跡など紹介

房日新聞 2026.8.13.

戦争遺跡保存全国ネットワークを編者に、大月書店から出版された書籍「決定版 日本の戦争遺跡」に、NPO法人安房文化遺産フォーラム共同代表の愛沢伸雄さん、池田恵美子さんの2人が執筆参加した。同書の中で、同NPOの取り組みや安房地域の戦跡などを紹介している。 続きを読む »»

第29回戦争遺跡保存全国シンポジウム土佐清水大会

⇒ チラシPDF

2026年8月22日(土)~24日(月)
会場:高知県土佐清水市立中央公民館 続きを読む »»

千葉県中小企業家同友会 機関紙に紹介されました。

一般社団法人千葉県中小企業家同友会の広報紙
月刊「経営革新」8月号 に紹介されました。PDF

<戦後81年> 終戦記念日企画
「日本経済の自主的・平和的な繁栄をめざす」

中小企業家同友会の3つの目的の中に、中小企業をとりまく外部環境の改善と共に、「日本経済の自主的・平和的な繁栄をめざす」ことを掲げています。中小企業経営の安定と繁栄は平和な世の中でなければ実現できないという戦中の痛切な教訓を生かしたいという同友会の先達の強い想いが反映されています。

千葉県南部の安房地域で活動する「NPO法人安房文化遺産フォーラム」のスタディツアーガイドに参加し、館山の戦争の歴史と「平和の文化」について学びました。

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プライバシーポリシー

【プライバシーポリシー】

NPO法人安房文化遺産フォーラム は、個人情報の保護に関する法令等を遵守するとともに、社会的責務であると考え、以下にプライバシーポリシーを定め、全ての職員、関係者に周知し、徹底を図ることにより、個人情報の適正な取り扱いに努めてまいります。

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【房日】260730‗「花物語」再びスクリーンへ
旧和田町で撮影の「花物語」上映
8月に東京で「戦争語り継ぐ」映画祭
出演者が南房総市長に開催PR

(房日新聞2026.7.30.)

 

旧和田町(現南房総市)で撮影された映画「花物語」(1989年公開、堀川弘通監督)が、東京・池袋の新文芸坐で開催される「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」(8月8、9日)で上映される。これを前に、主人公・枝原ハマの長男役として出演した俳優の八神徳幸さん(58)が24日、南房総市役所を訪れ、渡辺秀和市長らに映画祭を案内した。

(斎藤大宙、清水利浩)

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映画『花物語』上映&トークショーin池袋

第15回 戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2026年8月8日-9日
池袋「新文芸坐」

<内容>

8/8(土)9:40~
・映画『一枚のハガキ』上映
・トーク「新藤兼人 不屈の魂」ゲスト:新藤次郎さん

8/8(土)13:20~
・映画『花物語』上映
・トーク「花は心の食べ物」高橋恵子さん&八神徳幸さん

8/9(日)9:40~/12:30~
・映画『母べえ」
・映画『母と暮らせば』
・トーク:山田洋次監督&吉永小百合さん

【関連資料】
房日新聞 2026.7.30.
東京新聞 2025.6.12.
エコレポ
児童書「おはなし千葉の歴史」

 

共生と交流を育んだ房総アワビ移民史(歴史地理教育)

共生と交流を育んだ房総アワビ移民史

池田 恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム共同代表

『歴史地理教育』2026.7.増刊号 ⇒ 印刷用PDF

はじめに

房州根本(千葉県南房総市)の海産物問屋「金澤屋」の小谷源之助・仲治郎兄弟をリーダーとする男海士(潜水士)らは、明治期より米国カリフォルニアへ渡り活躍した。在米日本人の職業斡旋などに携わっていた佐賀県出身の野田音三郎が、モントレー海域にはアメリカ人が食さないアワビが大量に生息していることに気づき、乾鮑(干しアワビ)製造の専門家を調査派遣するよう農商務省に要請したことで、小谷兄弟に白羽の矢が立ったと伝えられている。

1897年9月、兄の源之助は渡航目的に水産業調査と記された旅券を手に単身渡米した。3か月後、弟の仲治郎は漁業製造監督、三人の男海士は漁業と目的が記された旅券をもち渡航した。しかし寒流のため素潜りは厳しく、故郷からヘルメット型の潜水器とともに、潜水士を呼び寄せた。モントレー半島から少し南下したポイント・ロボスを拠点に、潜水器アワビ漁と乾鮑製造の事業を始めたのである。

その後、実業家のA・M・アーレンと共同で缶詰会社を興した。苦楽をともにし、生涯にわたるパートナーとして強固な信頼関係を築いていった。

1.激化する排日運動のなかで

彼らが渡米してまもなく、中国人に続き日本人の排斥が高まっていく。水産分野で最初に漁獲規制が強化されたのはアワビ漁であった。移民政策が厳しくなると、潜水士の渡米も困難となったが、様々な議会対策や学術的な対抗策で粘り強く取り組み、房総アワビ移民らは異例の特別待遇を勝ち得たのである。地域社会においても市民との交流を大切にし、共生を育みながら、事業を継続していった。

アワビは缶詰や乾鮑にして中国と日本に輸出していたが、1915年にアワビ加工品はカルフォルニア州外への持出しが禁止され、事業は危機に陥った。そのころ、ドイツ人のポップ・アーネストというレストラン経営者が現れ、アワビステーキなどの調理法を開発した。サンフランシスコ万博で紹介されて人気を博し、アワビはアメリカ食文化に革命をもたらした。カリフォルニアのアワビ産業は100万ドルの収益を挙げ、そのうちの75%は小谷らの缶詰会社が占めたという。

事業に成功した小谷源之助は日本人会会長などの要職を歴任し、モントレー市民の信頼も得て、1930年に亡くなった。妻ふくは、「夫の在米34年間は、常に公共という精神で地域社会に貢献した人であった」と述べている。源之助の没後も、ゲストハウスには竹久夢二ら多くの芸術家や政治家の尾崎行雄なども滞在しており、その精神は子孫らに引き継がれていた。

やがて開戦に伴う日系人強制収容により、房州移民のアワビ事業は終焉を迎えた。終戦で収容所の閉鎖に伴い各地では反日運動が盛んになったが、モントレーでは解放された日系人らを迎え入れるための嘆願書が提出されたという。地元新聞には「民主的な暮らしをすべての人に」という見出しで報道され、作家のスタイン・ベックら多くの著名人も賛同し、400名以上が署名している。アメリカ人による組織的な親日運動としては例をみないほど大規模であった。日系人と地元住民らが築いた共生や交流は、現代まで続いている。

1994年、モントレー半島の日本人移住100周年記念式典において、小谷源之助の米国への貢献が顕彰され、ポイント・ロボスの州立自然保護区内の居住地跡は「コダニ・ビレッジ」と命名された。

2026年には、日系アメリカ人市民連盟(JACL)モントレー会館が百周年を迎えた。1925年にこの地を訪れた朝香宮夫妻が日本人の活躍に感銘して授けた下賜金と、アワビ事業の収益などを原資として、翌年に建てられた日本人会の集会所である。今なお日系人コミュニティの中心であり、館内にはヘリテージセンターもある。潜水器や様々な史料とともに、日米の国旗が染められた「万祝」という漁師の着物が展示されている。これは、南房総市の渡米子孫宅に保存されていたものを、友情の証として2007年に寄贈した。同じものは2点の現存が確認できており、もう1枚は館山市「渚の博物館」に所蔵されている。

一方、小谷仲治郎は9年滞米の後に帰国して房州千田(南房総市)に暮らした。潜水士を養成して米国へ送り込みながら、安房地域の教育や文化、水産振興に尽力した。共同経営者であったアーレンと妻サティの逝去時には、それぞれ千田の長性寺で仏式の法要を営んだ写真が残っており、絆の深さを知ることができる。

近年、仲治郎の旧宅を解体するにあたり、襖を丁寧に剥がしたところ、大量の古文書を発見した。おもに明治期の書簡や勘定書などの断簡文書であった。台風で水没した被災資料を原状回復し、コロナ禍に約530枚の崩し字を解読して分析調査を進めた。今まで知られていなかった渡米前の背景や人脈が明らかになってきた。生活のために様々な職業を求めた出稼ぎ移民とは異なり、政府とも繋がる専門家集団であった。

2.アワビをめぐる水産界ネットワーク

1878年、根本の森清吉郎は、器械潜水の始祖である増田萬吉を横浜から招聘して、潜水器を利用したアワビ漁法の試験操業を成功させた。一族の森惣右衛門も資金援助しており、村をあげての大事業となった。この漁法はまたたく間に全国各地へ広がっていった。

惣右衛門の弟・森大吉は、根本の金澤屋に婿入りし、4代目の小谷清三郎を襲名していた。実家の森家と協力しながら、潜水器アワビ漁業や安房の特産品である乾鮑の製造販売事業を進めていった。

清国貿易の需要が高い乾鮑は高品質が求められ、農商務省は1883年に第一回水産博覧会を開催した。清三郎は褒状を授与され、「製法宜キヲ得て品位佳良ナルニ由リ清国人ノ嗜好ニ適ス」と講評を得ている。さらに、1886年の大日本水産会主催の共進会で一等賞、1890年の内国勧業博覧会でも入賞し、乾鮑製造の第一人者として知られていった。古文書調査でも、「南京人に見せ‥塩かげんと云いかたちと云い申分なし‥と申され」たと記された書簡が見つかっている。

海外の最先端技術にも精通し、英語が堪能な増田萬吉との出会いは、清三郎が海外に視野を向ける契機になったと思われる。長男の源之助を慶應義塾幼稚舎と商法学校に、二男の仲治郎を大日本水産会水産伝習所に進学させ、8人の子女すべてに高等教育を与えている。先進的な学問や経営の実務技能を身につけた源之助、水産の最高学府で専門知識を得た仲治郎。2人とも学生時代から十分な英語力を習得し、後々まで役立つ人脈を培っていた。

卒業後の源之助は、家業の手伝いで新潟県佐渡や秋田県能代などに赴き、潜水器アワビ漁や乾鮑製造の事業を拡大して成功を収めるとともに、さらなるネットワークを築いていった。また、仲治郎の在学中より、金澤屋は水産伝習所や農商務省と深い繋がりがあったことも古文書調査から明らかになってきた。

1888年に創設された水産伝習所は、初年度より安房で実習をおこなっており、根本では金澤屋の小谷清三郎が乾鮑製造を指導している。伝習所の初代所長を務めた関沢明清は、農商務省事務官としてウィーンやフィラデルフィアの万博に参加し、米式捕鯨銃や缶詰製造、鮭鱒の人工ふ化など欧米の水産技術を日本に導入した近代水産業のパイオニアである。1889年に官を辞して館山へ居を移し、関沢水産会社を設立して自ら遠洋漁業や捕鯨事業などを展開した。中央と安房を結ぶ水産界ネットワークの中心にいたといえる。

さらに、仲治郎が水産伝習所で師事した海藻学者の岡村金太郎や動物発生学者の岸上鎌吉は、研究のための調査を根本で実施し、金澤屋の協力を得ている。特に岸上はアワビ研究の第一人者であり、農商務省水産調査所の主任技師として、論文「外国ニ於ケルあはび漁業」を発表している。これには、魚類学者でスタンフォード大学初代学長のデービッド・S・ジョーダン博士がモントレー周辺で調査した論文を引用している。

1896年に米国海洋調査船アルバトロス号の調査員らが来日し、水産伝習所において講演会、東京芝の紅葉館で懇親会が開かれた。通訳を務めた大瀧圭之助は、農商務省水産調査所技手の魚類学者であり、米留学時にはジョーダン博士に師事していた。こうしたアメリカの情報は、大日本水産会会報にも頻繁に紹介されており、小谷兄弟は渡米前からモントレーのアワビ情報に熟知していたと考えられる。

また、懇親会場となった紅葉館主の野辺地尚義は、日本の「英学教育の始祖」といわれる英学者である。しかも、小谷兄弟の渡米を導いた野田音三郎の岳父であった。渡航前年に、日米の水産界ネットワークがここに集結していたことは偶然ではないかもしれない。

3.地域コミュニティの共生と交流

仲治郎の没後、女婿の大島四郎は岳父の生涯を私家本『安房の潮左為』にまとめた。それには、「あるとき、加州海岸で大学生たちが魚介類の調査研究を行なっていた。たまたまその海岸にいあわせた仲治郎はその様子をながめていたのであるが、採集された貝の名や分類がわからず学生たちがしきりに議論しているのをみて、彼は明快に解明して学生たちを驚かせた‥」とある。これは、先述のジョーダン博士がモントレーに開設したスタンフォード大学のホプキンス臨海実験所の研修会だったと推察される。

渡米後まもなく排日の気運が高まるなかで、アワビ資源の枯渇を危惧する住民の訴えが起き、漁獲規制問題に発展していった。小谷兄弟は岸上のアワビ研究論文を科学的根拠として裁判で反論するとともに、白人342名の署名を郡議会に提出したり、在サンフランシスコ日本国総領事に陳情書を送ったりしている。

1940年の『在米日本人史』に「排日と小谷の苦闘」という章がある。「小谷兄弟の白人と提携した調査と研究を重ね‥」と記され、海上ピクニックを催して新聞記者や郡参事員などに潜水器アワビ漁の実況を見せて無害を訴えるなどの運動も紹介されている。

渡米前から培った専門的な学びや水産学権威らとの人脈、アーレンとのパートナーシップにより、厳しい移民政策下でも特別の事業継続が認められていった。

農商務省から海外実業練習生として派遣された椎原廣男は、「米国における本邦採鮑業者の状態幷びに経営法に就いて」という公式報告書を、1908年の『農商務省商工彙報 臨時増刊第十號』に発表している。アワビの餌である海藻の植生研究を専門としていた椎原は、水産講習所で指導を受けた海藻学者の岡村金太郎から小谷兄弟の話を聞いていたであろう。

椎原が調査でポイント・ロボスを訪れたのは、まさに排日運動が激化した時期であった。極めて困難な状況での移民問題は重要と考え、アワビ事業の分析をテーマに選んだと推察される。

この報告書は、「1.採鮑業の沿革/2.小谷採鮑製造所/3.加州沿岸に於ける鮑の分布/4.採鮑の方法/5.製法の一般/6.労銀/7.販路の状況/8.製造売上高/9.本邦仲買業者の不徳/10.採鮑業の将来に就て」という章立てで、米国の水産調査委員ウィルコックスの報告書も引用している。

渡米初期は裸体潜水であり、1898年より潜水器の使用をはじめ、1台あたり8人を要することや、米国製潜水器は品質が悪くゴム部に亀裂を生じたが、日本製を取り寄せると品質良好で長期間の使用に耐えた、などの記載もある。

事業経営については、「アーレン氏を支配人トナシ小谷両氏ハ単ニ使用人ノ名義ヲ仮用」しており、「之レ実ニ当北米合衆国ニ於ケル邦人経営法ノ最良手段」と述べている。在米日本人経営者の多くは白人と没交渉で融和する者は少なかったが、排日の妨害を避ける手段として彼らの日米共同経営のあり方を高く評価し、本国政府に報告していた。困難な苦労話ばかりでなく、アーレン夫妻と家族ぐるみで築いた共同経営の理念や深い信頼関係、地域コミュニティとの共生や交流を直に見聞きし、椎原は感銘を受けたのではないだろうか。

4.和歌山歴教協との教育交流

2025年度、「和歌山移民研究を軸とした国際交流事業実行委員会」に参画し、文化庁事業に取り組んだ。移民史・美術史・水産史をめぐる日米共同調査やシンポジウム・展覧会を協働でおこなってきた。

その一環として、アメリカ研修に参加した和歌山県歴教協の教員らとともに、「和歌山と千葉安房のオンライン教育交流会」を開催した。共生社会のあり方について考えるとともに、広域連携・国際的な視点へ広がる地域史教育について協議することができた。ユーチューブで公開配信しているので、QRコードより視聴していただけたら幸いである。