小谷 源之助

小谷 源之助(Kodani Gennosuke)
1867(慶応3)~ 1930(昭和5)


1867(慶応3)年、安房郡根本村で小谷清三郎・たよ(屋号:金澤屋)の長男として生まれ、根本小学校卒業後、14歳で慶応義塾幼稚舎に入り3年間学び、引き続き慶応義塾の商法学校で2年間学び卒業しました。その後、1890(明治21)年に東京学館で商業簿記学を学び、海産物を取り扱う家業(金澤屋)を手伝いました。

1940(昭和15)年、在米日本人会が発行した『在米日本人史』には「野田は…採鮑業の有望なるに目を着け、井出と諮つて日本より専門家を呼び寄せる」との記載があります。米国カリフォルニア州モントレーの豊富なアワビに着目した野田(音三郎)や井出(百太郎)、森(俊肇)などはアワビ事業に関わり、また「農商務省では当時千葉県にゐた小谷源之助にこれを通じて渡米を促し」たといいますので、専門家であった小谷兄弟に依頼があったと思われます。

1897(明治30)年9月、源之助(30歳)は一足早く単身渡米し、モントレー近郊での状況調査をするとともに、仲治郎や男海士(あま)たちの受け入れ準備をしました。 そして、3か月後に渡米してきた弟仲治郎らとともに、モントレーでアワビ事業を創始しました。当初、男海士(あま)たちによる素潜り漁法でしたが、寒流で海水温の低さから後に器械式潜水漁法に変更することになります。器械式潜水漁法によるアワビ採取試験は、1878(明治11)年に安房郡根本村沖で、増田万吉によって日本で初めて行われました。それから約20年後、アメリカで初めて同漁法によるアワビ採取が行われたのです。

『在米日本人史』によると1899(明治32)年頃、「野田と井出の協力作業は分裂し」たことで、「井出は資金がつづかづず…桑港の森肇の融資によって事業継続を図つたが遂に及ばず、ポイント・ロバスに於ける井出の採鮑業は森及び野田の協力者小谷の手にとつて経営」とあります。1902(明治35)年、日本人移民排斥という機運のなかで源之助は仲治郎とともに、大地主で投資家でもある米人のA.М.アレンとの共同事業で、アワビ缶詰を製造するポイントロボス缶詰会社を創立しました。同社の最盛期の水揚量は、カリフォルニア市場の75%を占めたとされています。

源之助はモントレー日本人会の会長を務めるとともに、教会への多額の寄付、植林の実施、生物学者の調査研究にも積極的に協力しました。日本からの文人墨客のために、敷地内にゲストハウスを建て、画家の竹久夢二や政治家の尾崎行雄が訪問し、皇族では朝香宮夫妻、高松宮夫妻が小谷たちの生活していたポイントロボスのホエラーズ湾を訪れました。 1930(昭和5)年7月、源之助の死後、息子の省三がアワビ事業を続けましたが、やがて缶詰会社は閉鎖されました。

1942(昭和17)年に妻の小谷ふくや省三らは、アリゾナ州ボストン強制収容所へ送られました。四男ユージンの妻ユリの実父である画家小圃千浦(おばた・ちうら)は、収容されたタンフォラン仮収容所内で美術学校を開き、収容者に夢と希望を与えました。

1994(平成6)年8月、源之助とその家族の功績をたたえ、州立公園内ポイントロボスの小谷家があった場所は「Kodani village」(コダニ・ビレッジ)と命名されました。